マイク・オールドフィールドがカーネギー・ホールでコンサートを行った。日本でもなかなかライブで聴くことの出来なかった彼の演奏を、直接聴くことの出来る希にみる機会であったので、いそいそとコンサート会場に向かった。 しかし残念ながら、これから私が並べるゴタクは、評論家を職業にしているわけではない私にも(いや、だからこそ)、少々辛いものにならざるを得ない。あらかじめ断っておけば、その晩のライブ演奏に良い瞬間がひとつとしてなかった、と私は言っているのではない。現に、バグパイプの一団がステージに現われて、あのアイリッシュ民謡のようなメロディーをやかましく合奏したときなどは、さすがの私も単純に胸の高まりを抑えることができなかった。 それに長いことマイクのファンを自認し、可能な限り彼の発表するアルバムを購入の上、愛聴さえしていた私が、彼のスタジオによる録音が素晴らしいとか何とかいまさら言うつもりもない。なぜなら、「音楽の何を最もエッセンシャルな部分と捉えるか」ということに、非常な神経をはらっている今の私にとって、かつて彼がどうであったかというようなことは、この際ことさらに述べる気にならないのは、致し方ないことである。 そんな今の私にコンサート(他人の演ずる「音楽」)に期待する理由はたいしてなかったが、特に「あえて期待しない理由」もなかった。それはかつてピンク・フロイドの東京におけるコンサート(『鬱』発表直後の)で、演奏が始まるや突入してしまった、我ながら恥ずかしい(二度とあのような経験はありえないというような)異様なまでの興奮状態を思いだしたせいもあるかも知れない。あるいは、そのときすでにこのコンサート会場で可能なものが、一体何であるのかを直感的に把握することが出来ていたせいなのかも知れない。 さて、演奏者が出て来ると同時にステージに現れた「指揮者」の存在が、私をまず失望のどん底に落とした。「ロックだから指揮者は要らない」というような先入観や、ロックに対する「夢や希望」があったからではない。むしろ、より本質的な意味で、音楽というものが在るべき基本的な姿からの乖離が、演奏が始まる以前に、その指揮者の出現によって証明されてしまったように思えたのであった(そして私は正しかった)。極端に言わせていただけば、指揮者が必要なものは、それだけで、もはや本質的な意味で音楽ではない、のである。 クラシックと言われるものであろうが、何であろうが指揮者という実際に音を出さない者によって音楽がコンダクトされる、ということ自身が表現の本質から考えて、あってはならない事である。それは必要悪なのであり、音楽が巨大化していく流れの中で仕方なく採られた妥協的産物である。音を出さない人による、楽団全体のコントロールというのが、たった一人で創られるその場の音楽より鋭いものになることはまずあり得ないのである。あえて、指揮という行為が表現というものにおいて意味があるとすれば、それは指揮をする本人にとってのみである。指揮をする本人だけが表現において責任を持ち得るのであり、また、現実の音楽を支配する可能性を持つのであり、指揮という行為を選んだ本人がその潜在性を知った上で、全責任を負わなければならない。(もっとも現在、音楽や指揮を学んでいる者の中には、それさえ分かっていないものがいて、もうそれは問題外である。) さて、もし「指揮者を伴う音楽というものが可能である」とすれば、すべての演奏者が指揮者の意図するところを理解(?)し、指揮者の音世界を技術的にも完全に再現できるという事が条件である。しかし、現実的にそのようなことは不可能である。しかも、オーケストラのひとりびとりがそのような集団による演奏活動の中で、自己表現が出来る(!)などと思い込んでいるとしたら(そして案外これが表現者を自負する演奏家達の現実である)、なおさらそれは不可能である。自己表現をできると思い込んでいる人を、どうして指揮者の責任で「ひとつの表現」に高めることができるだろうか。それは偉大な試みなのである。 指揮者を中心とする「エンターテイメント集団」に必要なものは、作曲家の意図と指揮者の求める音を寸分たがわず再現できる職人だけである。また、指揮をたてなければ演奏不可能である、というような音楽は、演奏家の訓練次第で大変なエンターテイメントのレベルまで、技術的に達することが可能であり、それがどれだけ困難なことであるかも想像に難くないが、表現という次元では実に限定的で詰まらないものである(少なくとも今の私にとっては)。 さて、私はつい今しがたロックに対する夢が云々という様なことを言ったばかりだが、ありていに申せば、曲の創作者であり、同時に演奏者である事が伝統的に許されている「ロックの方法論」に対して夢や希望がなかった、と言えばそれは嘘になろう。彼等は、指揮者をたてることもなく、自らの表現と創作の意志を満たす努力をしている、たぐい希なる人々なのである。結果や創作の動機がどんなものであれ、彼等はパーソナルな表現ということに対してオーケストラ演奏者よりは敏感であることがありうる。今となっては、それも真っ赤な嘘であった、と言うこともできるが。とにかく私はいわゆるロックの演奏家たちに対してある種の敬意を持っていたつもりなのであった。 ところがである。演奏家であるマイク・オールドフィールドは、自分の類まれなる「表現の場」にあろうことか「指揮者」を立てたのであった。彼は自分の可能性を他人の制御に委ねることで自ら99%制限することを選んだのであった。 ところで、シークエンサーを使わないで生身の人間が演奏すれば、生き生きとした推進力のある演奏が出来る、とはまったく限らないということを今ここで強調しておきたい。むしろ、人が自分の出している音に集中せずに「他人とあわせること」などに専念しているときの演奏、などというモノの方が実に聴くに耐えない。生身の人間が真に『乗っている』時の状態には勿論かなわないものの、私はシークエンサーによる多重録音が表現の上で「音楽の本質のひとつを抜き出すことが出来る」という点では評価している。そして諸々の事情から「人とあわせられない」私も、進んで自分の表現行為のシステムのなかにシークエンサー導入している。ただ、どのようにシークエンサーを用いるか、ということに関しては自らに厳しい条件を課しているつもりである。基本的に私のシークエンサーの使用は、いわば二度と出来ないような真剣勝負の即興の記録のためにある。シークエンサーの持っている表現や再現性の限界については言うまでもないが、ここでは敢えて触れない。 さて、「他人と音が合ってしまう」「併せよう」という点に絞って考えれば、クラシック音楽のオーケストラ・プレーヤーの方が従来それを可能にしている。無論、人生の大半を『調和』や『円やかなシェープ』創りに費やしてることを考えれば、それが得意なのは当然なのある。そう言った一点で考えれば、その晩の、マイク・オールドフィールドの連れてきたメンバーによるパフォーマンスは、文字通り最悪であったと言うよりほかない。むしろ彼がシークエンサーなどの機材一式をステージ上にすべて持ち込んで演奏した方が、聴いていて楽しかったに違いない。彼が満足したシークエンスや必要最小限の生楽器奏者をステージに持ち込んで、それに乗っかって、好き勝手にギターを弾き捲ればよかったのだ。技術的にそれが不可能であるのなら、彼はライブでやるべきではなかったのだ。 言ってみればオーケストラの演奏するクラシック音楽の方がその機能や目的から言って、遥かにエンターテイメントの質が高いと言うべきである。もし仮にスタジオ・ミュージシャン等を連れてきて演奏するほかなかったのならば、とことん指揮者なしでやるか、マイク自身のコンダクトによって、すべてが彼の思うように再現される迄リハーサルされるべきであったのだ。どこで自分のソロが始まるかを緊張しながら指揮者のキューを待っているスタジオ・ミュージシャン達をステージ上で見るのはpainfulと言う以外ない。 その晩、カーネギー・ホールで起こったこととは、マイクがかつてスタジオに於て制作、もしくはあらかじめ作曲してあった自作の曲を、他人の指揮によって何とかクラシックのコンサートホールで「お披露目できた」というのに他ならなかった。演奏家は自分の出している音に集中するというよりは、現在曲がどこまで進行しており、次に自分が何をするのか、ということに気を配っているのであった。これでは聴いている我々の方も音に集中することができない。そして各プレーヤーが、自分のパートを演奏し始めても、他人のリズムと併せるために体で拍子をとる、という有様であった。これはもはや「表現」ではない。 こうした「みんなでちゃんと合奏します、指揮者もいます」という状況の中で、憧れのマイク・オールドフィールドは、まあ比較的重要なパートを弾く、作曲家兼ソロ・ギタリストであったに過ぎなかった。勿論、相変わらずの《マイクぶし》はある程度聴けたものの(ファンにとってはそれだけで幸せであったに違いないが)、インプロヴァイザー、あるいは「表現」者としては実に凡百のギタリスト(あるいはそれ以下)となんら変ることはなかったのである。 さらに付け加えると、彼の役割は、ステージ上で第一部の終りにチューブラーベルズを自ら叩き、「コンサートを最高潮に盛り上げた」のを初めとして、完全にエンターテイナーでなることを選んでいた。私が疑うに、彼は実際にチューブラーベルズを叩いてはいたものの、それはほとんどアクションに過ぎず、我々の耳に届いていたのはサンプラーによる電気的な合成音であったと確信している。(その根拠として、アンコールで再び第一部の終りを再演した際、別の演奏家がチューブラーベルズを『お立ち台』の上で叩いたが、まるで音がしなかった。そのとき起こったこととは、本物のチューブラーベルズの音がラインに入っていなかったことは言うまでもなく、しかも『電気的な合成音』を演奏するもの(すなわちキーボード奏者)がいなかったので、結果的にチューブラーベルズを叩くというアクションがまったく意味をなさなかった、という事実をあげれば十分であろう。)つまり彼は完全なコンサートの『引き立て役』であったのだ。 そもそも、今回の「チューブラーベルズ2」というアルバムそのものが、そういう目的のものであったのだろうが、商業的目的がどうのと言うことはともかくとしても、彼の音楽の安定的な推進性はアルバムの方が比較にならないほど高かった事だけは確かだ。 我らがマイク・オールドフィールドは、スタジオにおける入念な多重録音によってこそ真価を発揮し、彼自らもその創作過程を楽しむことが出来るに違いない。 筆者による編集後記 on June 20, 2001 最後に、マイク・オールドフィールド氏の名誉と彼への多くの熱心な支持者のために言っておくと、私は彼が依然として好きである。ちゃんと読んで頂いた人には明瞭であろうが、私のこの辛辣な「批評の試み」は、筆者が聴いたコンサートについてのコメントであり、そこから演繹したマイク本人の得手・不得手の分野についての憶測である。そして、それによってより深まった当時の筆者の確信によって、一体自分に何が出来るのか、と言うきわめて切実な自分の問題を考えるきっかけになった。 本拙論で何度も繰り返しているように、当時の自分の主たる関心事として、本来的に音楽が“音を出さない者”によってコントロールされるべきでなくて、音を出す少数者(あるいは単独者)によってしか本当の意味で<<真実の音楽>> が出来るはずがない、という当時の確信を大いに反映したものであって、基本的に今でもそこにある種の真があると思うが、指揮者に関する(June 2001)現在の考えは、実はもっと複雑且つアンビヴァレントである。 本エッセイの最後でも若干触れているが、マイク・オールドフィールドに関して、彼の本当の得意分野とは何かと言えば、やはり自身のスタジオにおけるマルチトラック・レコーダを駆使した録音創作作品だと言えるだろう。彼のライブに関する一連の噂を信じるならば、私が1993年当時正直に感じた感想は、おそらく多くのマイク・ファン達が感じていた事と共有する部分があるようにも思う。多くの人がどう思うのか、というのはこの際本当は関係ないが、コンサートが終わった後に感じた実に腹立たしい想いというのは、やはりひとつの真実だったと今でも思う。もちろん、ひとつには彼に対する到底「公平」とは言い難い、聴衆のひとりとしての、あるいは入場料を払った一消費者としての期待があり、それが見事に裏切られたことに対する憤り。そして、どうしてコンサートが「そのようなモノ」なることが、あらかじめ予想できなかったのか、という自分自身の想像力の欠如に対するいらだち... 一体全体、マイク・オールドフィールドが、どうしてあのような形式のコンサートをやることに同意したのか、という事に対する疑問。それは、もちろんレーベル移籍先のワーナーからの“再デビュー”に必要な、新譜CDの「全米向けキャンペーン」の一環として考えれば、辻褄が合うが、それにしてもどうしてもう少しコンサート自体を「まとも」に出来なかったのか、という謎は残った。今にして思えば、それがアーティスト・マイクの限界であり、シャイなスタジオ録音アーティストにはあっても不思議はない、渉外活動への無関心、あるいは自己の生演奏のアビリティに関する純粋な無知、などなど、あれこれ考えることもできる。指揮者を立てたのがマイク自身だとすれば呆れる他ないが、おそらく、プロモーターの無計画に起因するスケジュールのタイトさや、それでもコンサートを敢行しなければならないキャンペーンの仕掛け人あたりの入れ知恵だと思いたい。けれども本当は何が真相なのかは分からない。いずれにしても、残念なことに「あのコンサート」をマイクが演ったのは事実なのである。 とにもかくにも自分自身を知る、ということ以上に大切なことはないな、と感じるある種の体験であった。彼がライブ活動をしてみようという気になるのは理解できないことではないが、それを行ってしかも彼のスタジオ作品に匹敵する推進性とノリというものが獲得できないのであれば、敢えてコンサートをする必要も本当はない。コンサートが終わってカーネギーホールを去ろうとしている観客の中から「ラジオで聴いたヤツの方がよかったね」という声が聞こえたが、それは正直なところだろう。レコード屋での平積みCDやFMラジオでのオンエアは、観客をあのクラシックの殿堂に誘いはしただろうが、恐らくあの日のライブはCD販売の起爆剤にはならなかった。そればかりか、却って新しい潜在的なマイク支持者の足をCD購入から遠ざけることになったと私は想像するのである。
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