もとより私は「数が多い方が正しい」なんてことを言うつもりもないし、そのようなことを主張してきたこともない。むしろ「数の少ないこと」が、あることの価値や信頼性の決め手のように感じてきさえした。たしかに、私のような天の邪鬼でなくてもマイノリティの文化にこそ価値を感じる人は現在多くいるし、大量生産方式で作られた製品よりひとつひとつ手作りで生産されるものの方が丁寧で高価であると思うこともわれわれの生活の中ではいくらでもある。
だが、それでも私がいまさら断るまでもなく、「数」というのは様々な局面で重要な役割を果たす。多数決の制度そのものがそうだし、たとえば署名運動なんていうもの自体が、数を「主張の強さ」に還元できるという考え方に則っている。つまり、世の中において、「数の大きさ」というものが、だいたいにおいて人々の「必要」の判断基準になっていることを過小評価することはできない。10人が主張するよりは100人の方が何かを動かせるかもしれない。100人よりは1000人が、1000人よりは1万人がより大きな出来事を起こしうる。
さて、今度は「一旦起きてしまったこと」の評価をする際に、その規模がどういうものであったかを知ることで、その出来事の深刻さの度合いに還元することがあることをわれわれは知っている。ある天災や事故が起きた際の被害というのは、失われた財産の総額や亡くなった人の数でその深刻さが「評価」されるわけである。これも実に日常的なことである。
2000人乗りの船の事故で1人死ぬのか、2000人全員死亡するのかというのは、われわれの当然の関心事であり得る。2000人中1人死亡の場合、われわれは無反省に「あんな事故で1人しか死ななかった」とか「死亡者が1人で良かったね」とか思わず言ってしまうかもしれない。だが、それについてわれわれはそうした数による「事故の全体的評価」を、ふと、おかしいのではないかと考えてみる想像力も持っている。2000人中の1人であったとしても、言うまでもなくその当人や死亡者の身内にとっては重大な「1人」である。一方、2000人全員が死亡したとして、数が多いこと故にその方が「より悲惨」であったとも言いきれない。2000人ひとりひとりの死が、個々に重いものであるというのが、われわれが思いいたさなければならないことだ。
しかるに、被害者の数が、死亡者の数が、ことの重大さを表すという先ほどの考え方はどのような風にその「意味性」を発揮するのか?これをあらためて考えてみるのは、あながち無駄なことではあるまい。ある政策に対する主張者(陳情者)の数と等しく、例えば被害者の数というのは、明らかな政治性を持つ。ある事故について、10人の被害者より、1000人の被害の方が、より深刻な問題であるとひとびとが反射的に考えてしまえる以上、ある政治的主張を押し通すために、やはり「数にものを言わせる」ことを知っているわけである。
ところで、たとえば「南京大虐殺は本当にあったのか」という“問題発言”に対して、「最低でも30万人もいたんだから明らかに大虐殺だ」という主張があれば、われわれはその主張のどこかがおかしいと思う。でもおかしいのは数そのものではない。数を「残虐の程度」に換算するその精神だ。したがって「虐殺の規模が、30万人だったのか、3万人だったのかはこの際重要ではない」という極めて「穏当」な言い方で、虐殺の規模や「歴史の真相」を以てその残虐の本質を「あらためて問う」ことに自らブレーキを掛けることができる。この「数は問わない」というある種の思考停止は、良くも悪くもある機能を果たしては来た。それは確かにそのとおりだ。殺されたのが3万人ではなく3千人だったとして、あるいは300人だったとして、それの残虐が免責されるわけではないのは確かだからだ。仮にそれが30人でも3人でも、いや1人であっても、その死の要因たる権力による残虐的本質が差し引かれるわけではない。その想像力を持ち続けなければならない。簡単に言えば、その死が自分自身であったら、愛する人であったら、と考えれば容易に分かることだ。
だが、そこまでわれわれの想像力を拡張させていくことが、われわれにとって義務であるとしたら、まったく別方向に想像力を発揮する責務もある。例えば、ある民族集団の殺された数が「600万人であった」のか60万人であったのかと数を問うことは、以上のような理由によって、果たして「意味がない」とまで断言できるだろうか。最初に確認したように、数はあることを成し遂げるための、明らかな、そして政治的な力になる。署名運動が正にそうであったのと等しく、6万人の死をもっては成し遂げられないことも60万人の死なら成し遂げられるかもしれない。いや、60万人で足りなければ600万人という数ならば、十分な動機と政治的正当性を与えることができるかも知れない。ということは、「600万人が虐殺された」という主張は、60万のそれよりも、より政治的な有効性を持つことが否定できない。そうなれば、政治は「殺されたのは600万人であった」という主張に対しては、どうあっても歴史学的な(あるいは科学的な)精査を回避しなければならない。正当性の前提である以上、その「歴史的事実」は書き換えることが許されないのである。
今日の世界では、虐殺の規模を問うあらゆる言動が、その意図や種類のいかんを問わず、発言者をきわめて難しい立場に追い込むことはつとに知られている。ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺についての言説がその典型である*。歴史の真相を調べることやそれを発表することが、ただちに「ホロコーストがなかった」という極端な主張に結びつくはずはないにも関わらず。広島の1発の原爆による死が、本当は10万人なのか30万人なのかとを問うことが、「原爆投下はなかったのではないか」という極端な懐疑とは何の関係もないように。先ほども確認したように、ひとりでも殺されたのであれば、その死は重い。数で強調される死の重みは、想像力に欠いた、ひとりひとりの死の重みをむしろ過小に捉える方向にわれわれを導く。