音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

不自由行為としての「芸術」活動
August 13, 1999

広く人々が問題にしている「芸術」とは不自由行為である。あるいは制限を根本条件とする行為である。「芸術」的行為を通して自由が得られるなどというのは幻想である。そも芸術の別名は伝統であり、伝統的世界そのものが実は壮大な芸術作品であった、という基本認識を取り戻す必要さえある。同時に、あらゆる創作行為は、演ずる現場、その他の諸条件を介してしか成しえなかった以上、個の「表現の自由」とは常に対立した。しかるに、芸術が不自由行為であるということを知っていてそれにたち向かうというのは、挑戦である。芸術が自由な行為であると信じてそれに向かうのは、愚かさである。

さて、ここに伝統としての芸術行為と、個にとっての「表現の自由」の二者択一が想定されるわけであるが、どちらを選ぶかと言われれば、我々は演者としての立場に立ったと考えると、不自由行為としての芸術(もしくは『芸術的なるもの』)への挑戦を採る、と応えるあろう。もし誰かがそうした歴史的文脈の中のいわば芸術と言いうるものに関心があるのではなく、「自由」に関心があるというのなら、あらゆる制限の領域、あるいは想定しうるすべての制限自体に対して向かうべきである。飽くまでも「すべての」である。それは舞台であるべき必要はないし、あるいは「演じ得るもの」である必要もない。なぜ、自由を目指す個人による表現の追及者が、楽器を手にして、あるいはステージの上で音符を吹かなければならないのか? 世界の制限に対して戦いを挑んでも勝てないが、生死の問題ではない舞台芸術に対してなら当面「解放」の矛先を向けやすいからであろう。だから、「自由に関心がある」などと嘯いてはいけない。

もし、伝統としての芸術活動、あるいはそれに付随する芸能行為に興味がないと主張しつつ、しかもそれに類した活動に関与しているのだとすれば、それは断じて自由を真に希求しておこなっているのではなく、それを制限する何かをやはり愛しているのだ。我々はもちろんここでそうと知ってそれをやっている、「愛すべき表現者達」を批判するつもりも毛頭ないのだが。

それでも、飽くまでその制限の中での<衝動>が個人の「自由の表現」を真に発現させる、と信じているのなら、町中でいきなり人を刺すことや人間としての生き方を捨てて自殺することの方が、はるかに自由な行為であり、政治権力を含むあらゆる社会の制限を超えようとする個人の獲得しうる最大級の自由行為である。肉体からの自由とでも呼ぼうか。あらゆる制限を真に超えるということの意味は、集団による壮大な芸術作品とも言いうる「文明」のもたらす、法律からも、モラル(因習・慣習的法)からももはや自由な状態であるべきなのである。(ただし、ここで述べた内容に価値判断を挟んではいけない。ここでは善悪の問題をしているのではないからだ。)

しかし自由の本質的問題は、外部の諸条件(世界)に対するわれわれの内的な恐れである。自己の自由行為による帰結として、最終的に捕縛され、場合によっては殺される(罰せられる)かもしれない、という恐れからさえも自由な状態こそが真の自由である。個人の、あるいは集団の「恐れがない状態」以外に自由の状態(これが国家権力にとっての真の脅威である)はない。自由になることが個人にとっての当面 の目的(テーマ)であるならば、自己の欲に伴って生じるすべての恐れを克服することに傾注すべきであって、舞台芸術を通 した「表現活動」にうつつを抜かしている暇はないはずである。確かに、恐れの克服という努力自体をとってみれば、それはそれで個人のおこない得る崇高な目標のひとつである事には違いはない。しかし、こうした「自由の信仰者達」に言いたいのは、自由は表現されるものではなく「生きられる」べきものである、という一点だ。もちろんそのようなものが、実際に生きられるかどうかは別 としても。

このように究極論ではあるが、あえて真の個人の「自由の表現」とは何かと問われれば、ある種の人にとって、破壊であり殺人であり自殺である、ということができる。(ここでも述べられた内容に対し価値判断を挟んではいけない)一方、ものをつくるということが何らかの<形>による制限行為である以上、破壊活動以外に「現状からの自由」の獲得はあり得ない。「真に新たな創造をなすには、一度既成のものを破壊しなければならない」という解体主義者一流の論理はおそらくこの辺りに起源があるのであろう。しかし、それに対して言えることが2つある。

ひとつは、「おまえが破壊しようとしなくても、そいつはもう破壊されているぞ」あるいは、「破壊のための努力をあえて払うまでもなく、その方向はもうすでに止められないね」ということである。例を挙げれば暇がないが、たとえば、とりわけ伝統音楽の領域においては、ジョン・ケイジによってすでに可能な局面 まで解体の作業を行われてしまった(らしい)。無音をひとつの作品として成立させた時点で、それ以上の自由はないという実績を作ってしまった。(「歴史的文脈」で説明すれば、何も演奏せずにサックスを持って舞台で立っている「フリージャズ奏者」というのは、ジョン・ケイジの作品の瓢窃をしている、とさえ言えるわけだ。)みんながその存在を信じている「ジャズ」という音楽に関して言えば、その解体は、現代の我々が敢えてそれをするまでもなく、ここ30年来、試みはなされ、ある種の「成果 」がすでに上がっている。その成果をどう評価するかは分かれるところだが、まだ解体は済んでいないと考える向きがあれば、気が済むところまで解体を進めてみればいいのである。もっとも解体そのものに一生費やすことは目に見えているが...(なぜなら、音を扱う行為としての音楽にかかわる以上、木目のパターンに人の顔を見出してしまうがごとく、作り出したその音の列にどうしてもある種の意味を見出さざるを得ないので、ジャズであるか否かの問題より、我々にはそれが音楽として聞こえてしまうはずだからだ。)それは、何が、「意味」で、何が「意味の解体」であるかの判断ができないことにも由来する。それはまた、人類の諸活動に関する歴史感覚が欠如しているために起きる陥る不毛な試みなのである。解体の後のみに「創造する」ということにこだわりを持っている人々に対してひとこと言い添えるとすれば、瀕死の敵の大将がもう死ぬと分かっていてトドメを刺しに行くよりは、彼を甦生させるという仕事の方がはるかに困難で創造的なのではないか、ということなのである。

「歴史にとらわれずに活動するんだ」と言って憚らないひとびとの自由、を制限することに我々の関心はない。しかし、解体行為という全くもって歴史的な意味でしか成立しない運動に荷担しつつ、芸術活動を歴史的文脈で説明するある種の史家に対して、「わたしゃ歴史は知らないよ」と言うのは、首尾一貫性に問題がある。考えてもみれば、演じられたもの、あるいは創作された物の「オリジナリティ」を云々し、伝統に背を向け、「新しい発想の飽くなき追求」にのみ囚われること自体が、創作行為を歴史的文脈で意識していることの証左である。それと同時に、自分は何ものからも自由だと主張することの何とも欺瞞的なことか。

しかし、それでも新奇な発想を追求し、人に理解されることに無頓着であり得る「現代芸術家」達は、実は深淵でも何でもない、ある単純明快な動機でもってそれを行っているのである。われわれはそれを不純な動機と呼ぶ。発想の追求者は、実は自己表現や自由の表現にさえ興味がなく、あるのは自己の重要性にのみ関心が向けられているのだ。(November 16, 2000)

二つ目は、「破壊、もしくは解体しなければ新たな創造ができない」と主張する者の想像力の欠如の問題についてである。秩序が保たれ続け、多かれ少なかれ負の成果を世に残しつつも、この世界を我々の知っている世界として成立たらしめていたのは、伝統というルールのせいである。伝統のもたらした負の部分しか評価できないのは、歴史に対する真の理解と想像力を欠如している証拠である。そのような評価を下すものたちが、実は近代資本主義文明の負の部分ばかりを過小評価する一方で、文明の利便のみを最大限に楽しんでいるのである。それはともかく、音楽を含む様々な「舞台芸術」も、絵画のような美術も、宗教儀式も、はたまた日常の生き方を含むあらゆる伝統的作法が、この様な有形無形のルールによって規定されていたのだ。ルールがあってはじめて我々は自由を味わうことができた。それがなくなったとき、我々がどういう世界に住むのか?

そういうことが分からず、単に秩序の解体だけに勤(いそ)しむというのは、想像力の欠如以外の何であろう? 父親を、先生を、刺してみるということがあるらしい。刺してみなければ相手がどうなるかは分からないという。こういうのは「想像」する力の欠如ではないのか。父親が死んでみなければ、本当に自分がどう感じるかは分からない、というのも想像する力の欠如以外の何物でもない。無論、「父」の座にとって代わることが目的で、自らかつての「父」の役割を担うために敢えて殺す、というなら、それには意義があるかもしれない。法的な闘争はあろうが、彼には達成したい目標があるのだ。殺すという行為自体は、この場合、創造のための手段である限りにおいて、実は創造に深く関わる行為を採ったとさえ言えるかもしれない。しかし、今の解体主義者(あるいはそれと知らずに解体に荷担する分子)は、「刺してみて初めて父親の重みが分かった」と言うのと五十歩百歩である。我々はそれを「軽率な行動」と呼ぶのだ。

その意味で、ものをつくるということのバリエーションのひとつである音楽という媒体を介して個人の自由を表現するというのも、実は矛盾である。音楽という形式自体が制限であり、特定の楽器を選ぶことも制限であり、また、音楽を超えた「パフォーマンス」という方法も制限以外の何ものでもない。複数の楽器を選択できるようにいくつか取り出しておいたとしても、「パフォーマンス」を舞台から引きずりおろし、街の中に引っぱり出したとしても、それはひとつの制限から複数の制限への移行、もしくは別種の制限への移行に過ぎず、自由の獲得とは何の関係もない。ある楽器や、演じる対象となる芸能形態の何かを採る、ということは自由を切望することの現れであるのでは断じてなく、その制限的条件に対する愛着に過ぎない。むしろ、制限のあるものほど、自分の真の不自由状態の「表現」が可能なのである。伝統的条件(の選択)が自由の表明の限定化になるとしか捉えられない者は、すべての形態や既成の道具を去ることしか方法はない。しかし、何か新たな道具や方法を発案したとしても、それがその個人の自由や自由の表現とは何らの結びつきもないのである。

そして何かを我々が万が一「自由意志」で選べた!として、なぜそれを選ぶのかという正当化のための理論武装とも実は何の関係もない。自分はそも自分として生まれてくることを選べなかった時点で、本来的に自由とは全く関わりのない世界に放り出されているのである。自由を無制限に求めるのではなく、現今の既成の制限とどう共に生きるかを考えることが、我々の精神の鍛錬のためにも、現実的実践の意味でも数倍有益である。

平和という概念が実は単に「戦争をしていない状態」でしかない、という風に否定的にしか定義できないのと同じ意味で、自由という概念も積極的には定義し得ない。飽くまでも「不自由でない状態」に過ぎまい。ましてや個人の幸せは自由と何の関わりもない。不自由状態にこそ幸せを感じる個人は世の中にたくさんいるのであって、それは「異常性格」でもなければ、「知の欠如が本人を不幸せにしている」でもない。それらを指して彼らが不幸だという者がいるとすれば、それは入らぬお世話であって、態度として不遜である。

肉体という器に閉じこめられている我々が、いかに度し難く不自由であるかを痛切に認識し、選択の自由さえ究極的にはないのだということを真摯に受けとめ、それを排除していくのではなく、むしろそれとどう付き合っていくか、それと共にどう生きていくかというように現実的に考えるしか我々にはないのである。


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