音のする彫像・詠う噴水/音を捉えようとする言葉

分析不可能性と音楽
January 29 - February 9, 2001

音楽にはどうしたって分析不可能な“心理的”側面*というものがある。こういう言い方自体を嫌う「音楽の知的分析家」というのも、もちろんいるだろう。

*また、このようなことを言うと、まじめな「音楽」関係者からだけでなく、別方面からも「心理学も(他の自然科学と同様)立派な科学であるぞ」という心理学擁護の立場をとるまじめな反論がでて来るかも知れない。なぜなら現代のあらゆる研究分野に於ける進歩が心理学研究の「観察」の方法にも影響を与えている可能性はあるし、そうしたup-to-dateの「心理学」なるものを筆者自身が追いかけていないので、その現況をもとに厳密には心理学全般を批判できるはずもないし、またする気もない。(でもホントはしたい)。

ただ、私は音楽との関わりの中でいかに音楽の「客観的観察」というものの精度を高めていくことができたとしても、最終的に観察者(聴取者、演奏者本人を問わず)の内面で展開されていく音楽体験の本質、あるいは「聞こえてくる音楽」によって引き起こされる体験(“情動”?とでも呼ぼうか)が、いかにその当人にとってリアルなものであっても、何を感じているのかという肝心の内容を証明することも、“情動”を再現することも不可能でしかない、という事実に向き合わなければならない。それは音楽の体験があくまでも内的な出来事であるからである(これを仮に「心理的分析不可能性」と呼んでもいい)。ただ、経験的にこうすれば音楽がよくなると「思える」ような手法の確立とその実践というのは、演奏者個々で必要に応じて追及していくことのできる課題だということは、それ自体強調しても強調しすぎることはない。むしろ良い音楽の方法などというものは、それは直感的に「こうだ」とか発案して、「これでもう明日から大丈夫だ」とかいうようなものであるはずがなく、一生をかけてあれこれ試して「完成」に近づけて行くしかないことだろうと思う。演奏についても音楽を創る方法についてもそれは同じ事が言えるだろう。

音楽において“心理的”側面の存在の「受け容れ」が避けがたいということの卑近な例は、枚挙に暇がない。当たり前だが、たとえばある時大変な感動を覚えたCDを再び聴いても、同じ感動を体験できるとはまったく保証の限りでない。その逆も然りである。一度高級ハイファイで聴いてそのあと一顧だにしなかった音源が、ある人のラジカセから鳴っているのを聴いて初めてどんなに良いものか悟る、なんてことだって起こりうる。あるいは音源の再生条件を「ほぼ同じ状態」にそろえて別の日の同じ時刻に聴いたとしても、聴く本人がもはや違う人間になっている以上、そのCDの客観的価値なるモノを述べることはおろか、ある意味それを「主観的」にもできないことが分かったりもする。つまり、いわゆる主観自体が変化し続けることが避けがたい上に、一度聴いた体験自体が本人の「心理」さえも積極的に変化させてしまう側面も勘案すると、もはや何が主観であるかも断定できないことになる。客観的対峙の何たるかを定義する以前に、主観がすでに問題をはらんだものである。これだけ音楽を巡るわれわれの側の不確定性というのが厳然としてあるというのは一旦銘記しておくべきだろう。これはまるで素粒子レベルの事象と観察者の関係性のようなものだ。観察者の観察しようという意思自体が観察対象に影響を与えているようにしか見えないのである(しかもどちらがどちらに影響を与えているのか、その真相も解らない)。時をおいて捉えようとすれば、音楽が変わってしまったように聞こえ、実は変わってしまったのは自分であったりする。ここには科学的観察の生来の不可能性がある。

要するに音楽というあたかも「客観的な実体」があるかに思える対象が、音と受け手の関係性の中でしか存在し得ない相対的なシロモノである以上、音楽を捉える「客観的手法」なるものや「トレーニング・メソッド」なるものが提案されても、それに効果があったとも、なかったとも、客観的事実として説明できないし、論証できる類のものではないことになる。自分の中だけで証明された気になるだけである。そしてその証明された気になった方法が、当人にとっては「痛みを自分にとってリアルな実在であると感じる」ほどに確実なものとして信じられるものであるにもかかわらず、厳格な意味では証明不能で人と共有できないのである。これがいわゆる自然科学 natural scienceと内的体験に関わる「音楽の学習 study of music」の著しい違いだといっても過言ではない。

勘違いしてはいけないが、だからコミュニケーションや自分の信じるものを「論証しよう」と努力しなくてよい、と言っているのではない。どういったものに関わっているのかを、われわれはわきまえてやればいい話なのである。

ある演奏者グループの中で、特定種の方法をいわば「厳密に試す」ことができた!としても、その試験的手法から得た音楽的成果に対して、その手法の価値(有効性)の判断を下すとき、グループの中でも意見が分かれたりするかも知れないし、何となく「あれよりこれが良かったよーな気がするね、君はどー思う?」てなもんだろう。これはもやは科学でもなんでもなく、お互いの「感想」と「それがどうしてなのかの憶測」を述べ合う大会であろう(もちろんこれには多大なる価値がある)。仮にあるグループ全員が「これは旨くいったね!」なんていう大いなる満足を有するセッションなりライブパフォーマンスがあったとして、その原因をあれこれ分析することもできるだろうし、もちろんそれも大事なことだが、これといった「決め手」になるメソッドを、その経験から抽出するってのも容易なことじゃないだろう。

ある人は「俺が出したプランが功を奏したんだ」と思うのだろうし、別の人は「俺のドラムが良かったからだ」とか思っているかも知れない。また別の人は、「あのとき自分が単なる“思いつき”としてある動機をベースで提示したからだ」とか考えているかも知れない。「あのとき弾くことになっていたはずのピアノを俺が弾かなかったのが幸いしたからだ」とか勝手に思っているのかも知れないし、案外、結局全員正しいのかも知れない。仮にそれぞれがそれぞれに正しいモノであったとして、こうした個々の場面で個々のメンバーのアイデアが、全体を「良好なもの」として支えていたのだとすれば、その中のどれかひとつの要素が決定的に「正しかった」ためにそうなったのだ、とは言えなくなる。どれひとつとして欠けても、その音楽がその「あるがままの状態」にはならなかったはずである。

早い話が、良い音楽を成立せしめたそのときの必要条件を思うままに列挙することは出来ても、これがあれば大丈夫というような十分条件を学問的に示すことは不可能ということになる。こうなると、音楽を成すとき、多くの専門学校が行うように経験則で音楽の訓練をすることはできても、ある演奏ないし音楽作品を良いものとして成立せしめているものの数々を学問化する(アカデミックに系統化する)こと自体が出来ないということに逢着するのである。仮にそれが出来ても、それはすべて音楽活動にとって実効的なものではなくて、単なる机上の空論になることを意味しているのではあるまいか?

ただ、そうはいっても「良い音楽」と「そうでない音楽」というものが瞬時にして区別され、プロ/アマを問わず広く語られているという事実には変わりがない。そこへ持ってきて、「こういう聴き方は、ああゆう聴き方より効果的である」というようなセオリーや「自分は他人より良く音が聞こえてる」みたいな話が仮に登場すれば、「確かにそう言うこともあるかも知れないけど、他人の聴いている仕方をあなた自身が“体験”できないし、逆にあなたが聴いている仕方を他人が“体験”できない以上、それはどう足掻いても科学に昇格できず、結局、単なる形而上の思想や“何か悪しき動機か欺瞞を秘めた或る理論を支える前提”に近いものでしかないだろう」という意見が出ても不思議はないのである。

つまり、場合によっては「音楽を語る」ことは必要であるし、それ自体が楽しい作業となることは、大いにありうるものの、やり方を間違えると実戦に役に立たない単なる不毛な観念論に終始する可能性が大なのである。


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