衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

自分でつくれ!

と私の親父は言ったものだ。BCLがブームになり、小中学生たちの間で流行ったときでさえそうだった。クラスの(特に)仲間が次から次にBCL用ラジオを買って貰って、どんどん受信困難な放送局を制覇していったときも、私にはラジオは買い与えられなかった。自分の小遣いで買うことも許されなかった。しかしこれに関しては、結果 的に親父の教育は成功しなかった。結局私は家に昔からあった「日本短波放送受信用ラジオ」(競馬中継や株式速報を聴くのにもっぱら使われる)を使って、大抵の放送を受信することは出来たからだった。もちろんそのためには、人には理解できないほどの工夫が必要で、大変な苦労を舐めたが、いや、却ってそのために私は誰にも味わえないほどの「BCLの本当の楽しみ」を経験したはずだった。

親父が良いラジオを買い与えたくなかったのは、私にラジオの作り方を勉強させたかったから、というのが理由のひとつだった。現にその数カ月前から、私はトランジスターのことなど少しづつだが勉強し始めていたのだ。そんなこともあって、完成品のラジオを買い与えるのは折角の学習努力を駄 目にしてしまうとのいかにも親父らしい考慮が働いたのだった。

このときの親父との会話(それをそう呼べるなら)は忘れることは出来ない。BCL専用ラジオが欲しいとの意向はお袋の口から親父に伝えられたが、その親父がある日私を呼びつけたのだった。結局親父の強い「命令」に屈して、私は涙を飲んで新しいラジオは諦めた。が、「日本短波放送受信用ラジオ」があったわけだから、結局ラジオを自分で作らせると言う親父の意図は外れたのだった。本当に私にラジオの作り方を身に着けさせたかったのなら、その「日本短波放送受信用ラジオ」さえ、私から取り上げるべきだったのだ。とにかく、2石トランジスター・ラジオや電子温度計は作ったが、勿論高性能短波ラジオなど一朝一夕(いっちょういっせき)に作れるはずもなく、私の創造性と工夫は、BCLを続ける際に、結局別 のところで、発揮されたのだった。

親父の意図が成功しなかったのは、私が現に代用品のラジオを見つけたこともひとつだったが、いずれにしてもラジオを欲しがる子供たちが、既製品の10KHzまで読むことができる高性能(10KHz直読!)ラジオを一足飛びに手に入れることで、言わば別 の次元での「創造的活動」を展開するはずだった、ことまで考えが及ばなかったのも、子供を説得できなかった敗因の一つだろう。ようやく鉱石ラジオを組み立て始めた子供が、(親父も一夜にしてそんなことができるとは思ってもいなかっただろうが)一流電気機器メーカーの作る短波用ラジオに対抗できるモノを組み立てられるはずもない。そんなことをしていたら、今聞きたい海外放送をどんどん逃してしまうのだ。子供たちの間でも、コンペは存在する。誰がどんな難度の高い放送を受信できるか、あるいは放送局の発行する受信確認証(ベリ・カード)が何枚になるか、を競い合っていたわけで、いくらトランジスターの勉強をしているとしても、高性能のラジオを一刻も早く手に入れることとは、それはそれで大事なことだったのだ。

先ほど、親父の教育的意図は失敗だったと言ったが、いや、そう言ってはちょっと言い過ぎかも知れない。うん、多分部分的には成功だったと言っても良いのかも知れない。いずれにせよ、親父は何かを買い与えるということに関しては、異常なまでに注意を払い、そう容易には首を縦に振らなかった。あのラジオの件に関しても、親父に言わせれば、「(海外放送を受信したいという)目的への意思が十分に強かったなら、どんなことも成し遂げられるはず」ということだったのかも知れない。

親父の教育的意図の部分的成功とは、すなわち、なければ「自分でつくり」はしなかったかも知れないが、何かで代用して「満足すること」を学習した点に尽きる。それはなんでも与えられて、みずからのものを全面 的に創造できないよりは、まだましであっただろう。代用を探すと言うことも創造性の一つだったのだ。

私のオモチャ箱には完成した既製品の玩具と言うものは極端に少なかった。あったとしても「ダイヤブロック」が、唯一の既製品のオモチャと言っても過言ではなかったほどだ。牛乳箱やお菓子の箱は何時でもすぐにオモチャと早変わりした。とにかくなにかを工夫して他のものに変えなければ、オモチャとして機能しなかったのだ。 私は絵を描いたり、楽器をオモチャにするほどガキの頃から芸術的センスに満ち溢れていたわけでもないので、退屈を何とかやり過ごすために常に周りを探し回り、想像のなかで、ストーリーを組立て、いつも「独り言を欠かさず」に一人で遊ぶ必要があった。

お袋は内緒で、私にミニカーを時たま買ってくれるくらいで、ほとんど新しいオモチャと言うのはクリスマスの時ぐらいしか期待できなかった。ミニカーも物によっては近所のバザー(?)か何かで買ってきた中古のようなものもあったように思う。勘ぐりすぎのきらいもあるが、それは父に見咎められたとき、お袋なりに言い訳になるという配慮もあったかも知れない。

ふたたび、自分でつくると言うこと

「オートバイに満足したとしても、それは自分のオートバイではない。ヤマハや、カワサキのオートバイである」とは、エッセイストの山川健一の言ったことだ。バイクマニアである彼自身からでた言葉だが、なかなか大したことを言う。私たちは大抵の場合、誰かによって与えられた「何か」によって満足させられてしまっている。だから、彼はそう言うのを、「せこいハピネス/しみったれた自由」という言い方で、自嘲する。それでも好きで堪らないのだから、せめて「オートバイと言う一見絶対的な楽しみ(ハピネス)でさえも、内面 的には、相対化され得るのだ」という射程を彼は確保しておきたかったに違いない。与えられたもので満足する、「単なる馬鹿なオートバイ狂」ではなく、「おいらも分かっちゃいるんだ」と釘を差しておく必要があったのだ。

私はそう言う奴の態度を肯定する。というよりは、これはむしろ肯定以上で、共感とでも言うべきものだ。なぜならば、そうした相対化への意思・態度こそが俺の行動美学だからだ。いつからか分からないが、そうした絶対を排除する態度が、私の行動の規範となって久しいのだ。(『不幸せの梯子を登る』参照)

話はだいぶ逸れたが、「与えられたものを最大限に利用して幸せを確保するというそのやり方に対する信頼」を私が持っているのは、いずれにせよ、親父の教育の成果 の一つに違いない。ピアノを弾くことで、満足を得ようとしている者に対して、「ピアノの作り方から学べ」と命ずることが(「いけない」と言っているのではないが)、ピアノをプレイすることで、今にも得られるかも知れない創造的活動を諦めさせるのが不適当であるように、どこまで、モノの「オリジナリティ」を強調するかは、議論の余地のあるところではある。しかし、そうした「強いられた遠回り」が、あるところで子供にとって何らかの力になるかも知れない、ということは無視してしまうことも出来ない。

手前味噌ではあるが、そこで出てくるのが私にとってのオーボエである。私のモダン・オーボエも製作や維持に当たっては、たくさんの現代のテクノロジーが投入されているはずであるが、私のオーボエが当面 壊れない、という前提に乗っ取って考えれば、「文明の在り方」が変わって、電気やガスが止まっても、音を出したいと思ったら、湿ったリードを楽器に挿して吹けばよいのだ。「その日」がやってくるまでは、エレクトリック・キーボードやコンピュータを使い続けるであろう(まったくもってご都合主義的だ)が、オーボエは私にとって、いつまでも「最後の切り札」となり続けるであろう。

構造が単純で維持の簡単なバロック・オーボエも早く手に入れて練習しなきゃな。


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