衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

それでは、「アメリカ」は民主主義なのか

東アジアの国々にしても、合州国自身にしても、アメリカが民主主義の権化(ゴンゲ)であるという認識を疑問なく受け入れている。そうした前提で議論がなされているが、果 たしてその前提の在り方は完全なものと言えるのか。民主主義の理念を語るとき、「民主主義の国」と容易に考えられ、また「典型的例」としてアメリカが持ち出されることに、ある種の疑念を抱かずにいられない。

かつて「共産・社会主義を考えるとき、腐敗したソビエト連邦を指してそれを語ってはいけない」という論法があった。

たとえば、国家のシステムとしての「ソビエト連邦」は崩壊し、あたかも共産・社会主義そのものが理念的に敗北した、というふうにも理解されがちである。私はそういう理解が間違っている、と言っているのではない。ソビエトから命からがら逃げてきた人がそれを言うのなら、説得力があるというものだ。また、理念としての共産主義自体に、現代共産主義国に生じ得たすべての問題の可能性が内包されていた、という考えがあってふしぎはない。そうした人々が「主義」そのものを憎んだとしても、無理はあるまい。しかし、立場上、客観的で存り得る我々までもが、簡単にそうした考えや感じ方に同調してしまうのは軽率すぎるのではないか。

ソビエトは失敗した。それはツァーが伝統的に支配したロシア、イギリスを始めとする近代帝国主義のトレンドの中で相対的に後進国の地位 を強いられ、国内の特有で不幸な資本主義のもとで革命が起こるのが待たれた、ウオッカの国、不思議な労働観・階級意識を持つ国、ひるがえってその特殊な階級社会のみに在り得た希有の芸術産出国ロシア、という総ての要素を無視して、あの寒いロシアで社会主義が失敗したから、社会主義に必然性や意味がなかったなどとは、断言できないということなのだ。社会主義が人々の労働意欲を減退させた、という結論も簡単には下せない。ロシア人自体に特殊な労働観がある、ということを無視していいのか。同じ社会主義の中国人は、ロシア人ほどに労働意欲を失った怠け者なのか。そちらの方面 で、私は具体例を上げるほどに専門知識があるわけでもないので、何とも言えないが、ある地形的、習慣的、道徳的基盤の上に、ある特定地域で共産主義的社会が実現していても何の不思議もないと思っている。つまり、うまく行っている社会主義国(があるとして)を、民主主義的道徳理念で、思想や言論の抑圧だ、と表面 的に捉えるのは、あるいは、間違っているかもしれないのだ。

問題は、一つの地域社会で「アウトサイダー」が一人でも出たら、それは失敗と言い得る、という別 の社会学的・実存主義的に議論できる余地もあるのだが、敢えてそれはここで蒸し返すのは止そう。

さて、民主主義自体が疑問視される、という事態に至ったとき、私はある種の醒めた見方で、「民主主義」=「アメリカ合州国」という図式に対して「?」マーク付で考えなければならないのではないか、というアイデアに至った。

「腐敗の国」「価値の崩壊した国」アメリカというものを考えるとき、民主主義そのものよりは、アメリカという国の成り立ち、歴史を無視して語ることはできない、と思うのである。さまざまな意味で、アメリカという国の成り立ちには、ほかの民主主義国家とは一緒にして考えられない、特殊性があるという事実を忘れがちだ。

アメリカの歴史的特殊性とは、(いしかわくんのアイデア) 旧弊な慣習や社会のしがらみから逃げてきた者たちが造った民主制の国と、国内で古い体制を倒してから造るしかなかった民主制国家とは当然その発展の仕方が違う。

私はこれを説明することで、「だから、アメリカはそれで良い、しょうがないのだ」と言おうとしているのではない。アメリカ自体のもっている問題と、民主主義の潜在的な可能性というものすべてを混同して考えることは危険だ、と言っているのだ。確かに、民主主義のもっている矛盾や問題が、このアメリカという国で噴出していない訳ではない。しかし、それでそのいわば極端とも言えるアメリカでの「民主主義標本」だけで、民主主義全体を結論付けるのは、性急ではないのか。

さらに、「アメリカが失敗すれば、民主主義の本当の危機が訪れる」という側面 を忘れてはならない。当、不当に関わらず、アメリカが政治的・倫理的・生活的に敗北すれば、民主主義そのものが評価されてしまう、という現実が待っているであろう。我々、民主主義の本当によい部分の恩恵を受け、自由を享受している者にとって、そういう面 が、実は最も胆に命じておかなければならないことなのだ。そのためにも、アメリカと、理想としての「民主主義」というものを常に分けて考えるという、別 の射程を設けておかなければならないし、必要とあらば、不完全で未熟な論理をつぶす準備もできていなければならない。

ありていに言えば、シンガポールの外務次官の説明した「アメリカの退廃の危険」に対しては、おおむね共感できる。私は、「自国の管理もろくにできない奴が、うまく行っているアジアのやり方にどうのこうのと文句をつけるな。心情的には『論語』でも読んで少しは勉強しなさい」と言ってやりたいほどだ。

しかしそれでもなおかつ、そうした論法が、実は極端の場合、ファシズムへの逆戻りを意味するということがあるのでは、と言いたいのだ。これは馬鹿げた考えすぎではない。韓国や日本やタイなどのように、成功した民主主義をそのまま維持すればよいではないか、と言えるほど単純なものではない。民主主義は人々の不断の努力と積極的政治参加、理想をめぐる議論によってしか維持できない。民主主義が当り前のようにうまく行っているとき、我々はその実現や維持に掛かっている労力や犠牲を忘れがちである。また、忘れて腐敗するからこそ、絶対制と民主制の間を歴史は行ったり来りする訳だ。民主制が制度として間違っている、という性急な結論は、それこそ現・民主制が覆えされればよい、と思っている危険分子たちによって利用されるのが落ちなのだ。そういう悪意ある人々の道具にならないためにも、民主主義の批判には注意しなければ、我々それを享受する者や、その子孫が後悔することになるだろう。ドイツのナチズムやイタリアのファシズムも「民主主義」の中から生まれたのだ。意見しない大量 の中産階級層と、貧困さえあれば、「民主主義」は簡単に「独裁制」に早変わりする。

ときに、混迷の続くロシアでは、初めての総選挙があったようだが、それで大躍進をした、まさにファシストの再来とも言える、ヴラジミル・ジリノフスキーの率いる政党の名は「自由民主党(Liberal Democratic Party)」という。形の上では、共産主義でもなく、強硬な自由主義経済を提唱しているのでもない。彼の選挙で使った演説には、「アラスカはロシアの領土だ」に始まり、「ドイツが内政干渉するなら、第3第4のナガサキ、ヒロシマになる」「日本が北方領土の件でガタガタ言うなら、北海道に原爆を2,3発落とせばよい」「ロシアが47年前、日本を完全占領しなかったのは失敗だった」などという発言で貧しいロシア国民の心を掴んでいる。彼はそれでも「民主主義」を標榜しており、民族主義者ではないというのだ。つまりこうなってくると、共産主義や資本主義というような名前の問題ではなく「中味」の問題なのだ。中味は、それぞれに細かく検討されなければならない。

繰り返すように私が最後に強調しておきたいこととは、

「真の民主主義、あるいは在るべき(可能な)民主主義というものと、われわれが目にすることのできる現実とを分けて考える」

「現在目にすることのできる、同じ名で呼ばれる現実を、それぞれに特殊な背景を持っているということを無視して一般 化して語れない」

という2点である。あるいは、

「現在目にすることのできる、同じ民主主義の名で呼ばれる現実をそれぞれに特殊な背景を持っているということを無視しては語れない」

と言い替えればもっと分かりやすいだろうか。

「文明の死」の水先案内人としての「民主主義」。または、もともと人間が「社会的動物」であることの大前提と対立する解体理念としての「民主主義」。「民主主義」自体が、あらゆる「文明という名の病」の症状の一つに過ぎない、という視点もあり、アメリカの都市部がまさにそうした末期症状を呈している、という見方もあるが、それについてはここでは言及しない。飽くまでも臨床社会学的(生きていく皆に役立つ)な見地から私は述べたのだ。こうした「哲学者」「予言者」としての私は別 のところであなたの前にお目にかかることもあろう。ふふふ。


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