衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994) | |
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自分になる(散文) |
我々が目指せるもの、そして人々が絶え間なく引き付けられ偉大だと賞賛してやまないものとは、結果 的に究極的な『個人性』であった、という歴史的事実がある。 それは特に前世紀に入ってから科学などの技術面を極端に発展させたりしていろいろ遠廻りをしたあげく、ようやく人類が気が付いた事なのだが、大人が子供の絵などを見て喜ぶこととなんらかけ離れた現象ではないのだ。ちなみに『個性』という言葉は使い古されたばかりでなく、『芸術』というかつて信じられた世界(組織や産業界)の内側にいたある種の人達が驚きとともに乱用した結果 、形骸化してしまっているので使わない。 しかし、賞賛がどうのという前に強調しておきたいのは、〈自分にたち戻る以外に、自然に近付く方法はない〉という逆説的な秘密である。Artとは人の手による自然の模倣が始まりであり、自然の体現した美をアナライズし、それを真似ることによって、『芸術的至高さ』へ人類が到達する事を可能にしていたということはすでに述べた。 だから、自然をよく観察し馴れ親しもう、と提案しているのではない。私は〈自然そのものにならなければならない〉といっているのだ。 荒々しさや不規則さ、不条理といった要素も自然の持っているものである。それらすべてと同じになるということだ。間違ってはいけないが、一体になるということではない。一体になどなれるはずもない。我々がなりうるのは自分自身であり、自分自身になるということが目標である。もともと目標などである必要もなかったのだろうが、それさえも成し遂げていないのであれば、当面 それを目標にする以外ない。自分自身に瞬間的にでもなれたとすれば、それが自分が生まれてきた理由を知ったことを意味するのである。 ひとが自分のために生きていた頃、「自分になる」などと言うことは目標になどなろうはずもなかった。が、社会が緻密に構造を保持し続け、その仕組みの一部と化さなければならない時代であった以上(それはここ数千年から数万年という幅で続いており、現在その終焉を迎えようとしているのであるが)、不幸にもまず、自分とは何か、自分は何になれるのか、というところから出発しなければならなかったのだ。 創造主という者がいて、それが地上にたったひとつの顔しか要らなかったのなら、このように多くの種類の顔を創らなかっただろう。また顔の種類の数だけ多様な人の心があるのだ。ひとつでも同じものがあってはならない。ひとつでも同じものが出現し、それが自分のコピーを無造作に創り始めれば、それは癌である。従って、同じものがでれば、どちらか一方がいなくならねばならない。 等しく創られたはずのものの中の『個性』ではなく、最初から仕組まれたはずの真の『個人性』の体現こそが我々の生の意味なのである。 やがて来るべき完全なる個人性の時代に向けて
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March 1993 Archivelago | |