衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

「分析」を超えて

それでもなおかつ「感覚第一」と私は言おう。

当たり前のことを書こう。美と言うものは、本質的な意味で、アナライズされ得ない。いや、しかし五十歩譲って、美や、それを成立させると考えられる形式のようなものが背後に存在するかもしれないことは認めておこう。そして、それらがそれを専門とする学者やその卵によって盛んに研究されているのは事実である。そして、その認知された形式が創作家本人によって意識されたものにせよ、彼の官能によって選択されたものであるにせよ、そうした解析結果 は、形式の存在のために、そして学者の積極的な運動により、支持され、後世に伝えられてきたものだ。しかし、それが専門家による学術的な努力によって重要視され、伝えられてきたことと、美そのものの評価とは別 物である。

秀逸な作品が客観的に存在するかどうか、と言う議論はともかくとして、世の中には優れた作品を「普遍的だ」と評する人がいる。作品の素晴らしさを「普遍性」などという言葉で置き換えることは往々にしてある。が、それで何かを説明したことにはならない。出来合いの「作品」に感動したときに、「普遍性」を見出したと思えることはあっても、それが単なる思いこみに過ぎず、個人的見解を越えるものでないこと証明するのは確かに簡単ではない。仮に、歴史に残った「偉大なる」作品群に共通 して隠された意味や形式が発見されたとしても、そのためにそれが表現として秀でたものであるという決め手にはならず、作品の秀逸性の裏付けであると結論を急ぐことは出来ない。また反対に、「偉大なる」作品群に属さないものに、隠れた意図が存在しないことも無論証明できない。

つまり、いずれにせよ「普遍性」という魔術的な言葉でもってしても、その作品の本質を語り尽くしたことにはならない。そればかりか、どうしてそれを「普遍的」と結論できたのか、という証明が決定的に不足している事に変わりはないのだ。作品の生き残りが、人間の「残そう」という人為的努力を無視して、そのものに潜む普遍性という絶対概念があるなどと軽言してはいけない。どういう種類の人達またどういう専門家たちがそれを「残そう」と考えたのか、それを検討せずに、普遍的なものは世に残るなどと結論づけるのは完全な片手落ちである。

むしろ、人間にとって真に普遍的なものは、何を美味しいと感じるか、何を悲しいと感じるか、などの官能に関わる人間の感情や感覚自体である。また、音楽に限って言えば、何が協和していると感じるか、そして何が不協和と感じるかという人間の感覚・感情に属する判断力が、総ての基礎となっている。しかし、どうしてそれがそうと感じられるかという「本当の理由」は誰にも説明できない。酸っぱいと感じるのは腐ったものをそうであると見分けるためだ、とか言うように、あとから合目的的に説明できたとしてもそれは一つの可能性に過ぎまい。人間の感覚・感情を無視したものは、「作品」としてはあり得るだろうが、「表現」には属さない。また、それはいわゆる伝統的・一般 的な意味で音楽ではない。音を扱っているという理由をもって音楽の一形態ではあると言い得るが、それは音を「楽しむ」という本来の意味での音楽からは乖離していると言わざるを得ない。勿論、精神に不快なもので「楽しめない」ものでも、それを「表現手段」として意図的に選ぶことは可能である。人を不快にさせたり、悲しみのどん底に突き落とすことも、表現者の役割たりうるからだ。「知性」や「本能」が不快や悲しみさえ楽しむことが出来ることはつとに知られている。

繰り返すようだが(何度でも繰り返そう)、隠れた意味や形式が分析・説明されても、音の美の「本当の原因」が説明されたことにはならないのだ。人間の脳がどうしてそう感じるのかというメカニズムを因果 関係を追っていき「何がどうなるからそう感じる」ということは言えても、じゃあ何故そうなのか、ということになると、それは形而上の設問になっていかざるを得ない。つまりそれは科学にとって未知の分野なのである。という事は、翻って、「人がそれをどうして気持ちよく感じるのか」という本当の理由は、絶対に分からないということであり、美と言うものは経験的にしか獲得し得ないものだ、という事を意味している。「どうしてそれを人間が美しいと感じるか」という『本当の理由』は、どうあっても、語り尽くし得ないのだ。

さて、そうした真に本質的なことは便宜的に脇へ置いておくとして、「美の成立要因」を学術的探求によって分析・条件付けることが可能だ、と言う一側面 についてのみ絞って考えてみることは必要かもしれない。ギリシャなどでは、美学というものが早い時期に成立・発展したという歴史的経緯がある。例えば、「美人の条件」などというものが分析・一般 化されており、それをもとに「美人」の再現・模写が可能になった。例えば「八頭身の美人」という概念は、長年の経験や研究によって得られたギリシャ美学の到達した一結論である。後でも更に言及するが、それでもまず美人の典型という現実のモデルがたくさん集められたことに違いはない。まず現実の世界に美人と考えられている人物がいて、「どうしてそれを我々が美しいと感じるのか、その条件は何なのか」ということが、研究・分析の動機であった事に疑いはないのだ。

そう言った意味で、私は楽理の存在の意義を否定するものでは断じてない。

さて、私が新ウイーン楽派をしばしば批判の槍玉に揚げるのは、彼らが造り上げた方法論が、美を構築するための「解析」→「再現」の作業ではなく、意味(音楽と関わりのない象徴性など)や新奇な方法論を音の中に閉じ込めるための作業に他ならないからだ。簡単に言えば、彼らの試みたものは「方法論のための方法論」であり、美しいものを再構築するために行なわれ始めた、従来の楽理の役割とは根本的に異なるものである。つまり、耳で聞いて感じる「美の構築」を目指したものではない。私が「不快なものも楽しむことが出来る」という前提の上で、彼らの作品が我々の耳に不快に響いたとして、それが意図したものでないことに変わりはなく、当然表現でさえない、と言いたいのだ。正に、すべての絵の具を混ぜ合わせた色で、ランダムな模様の構築を図っただけのものである。無論その「無作為性」の中には様々な凝った仕掛けがあるのだろうが、新ウイーン楽派以降、音楽の世界に起こったことは、単に「12音を均等に扱う」とか言ったことだけではなく、さらに作曲家が進んで「表現者としての役割を放棄した」と言うことであったのだ。

ところで、私は音楽の趣味に対して、非常に自由で、かなり「反伝統的」な音すら許容し楽しむことができる。そうした意味で、伝統的な音楽理論に支えられていないものでも、私の耳には心地よく感じられたり、面 白く感じられたりするものは数多く存在する。私にとってのカッコ(「」)なしの音楽とはそういうものである。つまり、「形式」に対してはどのような方法を取ろうと、「結果 がよければ何でもいい」という言わば「結果オーライ主義」なのである。最終的にどのような「作品」も耳に入って来て、感覚の領域である精神域に達して、それがカッコ(「」)なしの音楽であったかの判断がなされるわけである。そのなかにどのような「イングリーディエント」が入っているのかと言うのは私にとって重要ではない。私にとってと言うのは、つまり「音楽を愛するものにとって」と言うことだ。

そもそも学問は、研究対象として感覚や感情の領域を含まず、事実を扱うのみであるから、作曲され作品化された対象は、その美の在不在にかかわりなく、任意に取り上げられ、分析されることが可能である。しかし、実はそこに学問の逸脱と次世代への無責任な誤謬が内包されているのだ。元来、「美しさはどこから生じるのか?」という不滅の設問への答えを見いだすために、アナリシスが開始されたのであるから、近代以降の学者が、バッハやベートーベンの作品をアナライズしたとしてもなんの不思議もない(何度も言うように、私はそうしたかつての楽理家たちの分析努力に批判を加えるものではない)。そして、さらにはそのなかにある共通 の言語や特徴や方法論が見いだされたのは当然の結果である。どのようなハーモニーやその進行が創作家によって好まれ、同時代の人々によって愛され、美しいものとされたか、などの歴史的事実の集大成を、統計的に分析・結論付けることは可能だからだ。

ここで「最初に、ある作品群が、個人もしくは人々(の感覚)によって好まれてきた」と言う大前提を否定してはアナリシスが成立し得ない、という事実に行きあたる。「美味しい料理」や「美人」の条件を数値的に一般 化できるのと同じことである。しかし、アナリシスには、何が愛され、どのようなものが好まれるのか、という「人の感覚」的判定の歴史的・統計的事実が大前提になっていることは忘れることは出来ない。

しかし、そうした研究の作業が美(「驚き」また、時には「不快」さえもそれに含まれるのだが)を説明するための道具であるときには意義があるが、そうした作業が「感覚」や「表現者の意図」そのものから切り放されたときは、まったく意味がないのだ。 美味しくない料理にいくら「材料の分量や目方にシンボリックな意味を込めた」とか「自家菜園の無農薬・無添加材料しか使っていない」とか説明されたとしても、味わって美味しくないものにはなんの意味もない。アナライズが「作品の理解」や「深い味わい」のための有効な手段であるとして、作品に接する人に押しつける者がいる。それは「食べただけではその料理のシンボリックな意味が分からないかもしれないが、ちゃんとレセピーを読んで、その意味を理解しながら食べれば、まずかろうがおいしい」と主張しているようなものなのだ。おそらく、それは料理と言う形式を利用して作った「メッセージだ」とでも言うつもりなのだろう。経験で培ったにせよ、学問的に修得したにせよ、創作家が自分の「感覚」で意図した作品を作らないのなら、私はそれを「料理」と呼ぶことは出来ない。そうした意味で、私は、新ウイーン楽派の「作品」を(総てとは言わないまでも)音を扱っていながら、音楽であると認めることが出来ないのだ。私にとっては、それは「食べることの出来ない見栄えの良い(あるいは変わった形をした)ケーキ」、あるいは「音を使った遊び」とでも言うべきものだ。楽譜を分析しなければ「深い意味を味わえない」また「楽しめない」ものなど、音楽ではない。

創作家が自らそれを心地よいと感じ、それを本人が愛しているものなら、私も一緒にそれを「感じてみたい」と考える。しかし、「何でもいい何かを構築するために、人の官能を無視して考案した方法論」を押し付けてくるものは拒否せざるを得ない。1度位 なら聞いてみてもいいが、私はそれを音として楽しめないことを知っているから、「敢えて音列表を参照して、それを分かった上で鑑賞しよう」などと殊勝なことは考えないのだ。

ところで、バッハの音楽にはテキストやコンセプトから来るさまざまなdescriptiveな音表現が見いだされ、それは作品に「多様な効果 」や「アクセント」を加える結果になっているようだ。あるいは、それはアナライズするまでもなく、音やテキスト(歌詞)に集中して鑑賞すれば、純粋に音楽として認識できる範囲のことだ。しかしながら、そのバッハの音楽でさえも、彼の音楽の本質はそうした「しかけ」の中にはない、と断言する。それはバッハの持っていた音の美に対する、科学にとっては明らかに不可知の領域に属する彼自身の「感覚的個性」によるものなのである。あるいは、それは「癖」とも言うべきものかもしれない。あるいは彼の「このみ」とでも言うべき範疇に属するものなのである。そしてそれは、まさに彼の音楽を純音楽とでも呼ぶべきものにしているもの他ならないのだ。

しかし、誰がその個性を、そしてその美の本当の存在理由を説明し得ようか。そして、言葉で説明しうるものなら、どうして音楽を通 して表現する必要があるのであろうか。繰り返して言うが、美と言うものは、本質的な意味で、アナライズされ得ないものなのである。

かりに、アナライズされ得たとして、美の再構築・再現がそれによって可能であるとして、それらが厳格なる分析の過程を経ないでつくられたものより、より美しいかという事はまったく別 の話なのである。


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