衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

ブラヴォーか万歳か

ニューヨークで生活していると、ケーブル放送の数えきれないゴミの様なチャンネル群の中から、日本に関する貴重な情報源となり得る日本語放送をいくつか拾い出すことが出来る。それらは、日本ではほとんど関心も払わなかった民放のニュース番組であったりするのだが、ニュースそのものが少ないので、ついつい見てしまうのである。こうした番組の中には、毎日のニュース番組の主要部分に、即席的な字幕を付けたものから、かなり読み応えのある字幕を付けて、「ニューヨークに住む日本人のためだけではありませんよ」と言いたげなものから、文化の相互理解に寄与すべく工夫したと思われるものまでさまざまなある。さて、「最新の」とは言っても日本の時間からは優に数カ月遅れの「トレンディー・ドラマ」(アメリカ人に言わせるとそれはソープ・オペラであるそうだが)の中に、問題の箇所があった。ドラマの英字幕は、理屈っぽい私に考えなくてもいいような余計なことをいろいろと提供してくれるのである。

考えなくてもいいような余計なことのひとつにドラマの中における登場人物の呼び名のことがある。「呼び名」というのは、外国語や文化を学ぶ際に一番最初に問題になり、しかもちゃんと説明をしておかなければ、いつまでも「理解不能」なことになり、いつまでも学習者にとって解きがたい謎の部分となる。

さて、問題の字幕とは弟の嫁が義理の兄を「お義兄さん(おにいさん)」と呼ぶ様な時に、それを本人の名、「幸平」と(英語文化において自然であると考えられるように)、訳してしまうようなことを指している。日本では、弟の嫁が義理の兄を「お義兄さん(おにいさん)」と呼ぶことはあっても「幸平」と呼び捨てにすることは、ほとんどありえない。

そういうことがあり得るとしたら、義理の兄となったその「幸平」が弟の嫁の昔の恋人であった!というような、正にソープ・オペラ紛いの状況ぐらいしか考えられない。それこそもし本当に「幸平」が弟の嫁の昔の恋人であったなど、「ドラマチック」な状況だったとして、誰か他の人に聞こえてしまうようなところで「幸平!」などと呼び捨てにしたら、それこそ、それをきっかけにドラマはその後、新しい展開を見せてしまうだろう。余り考えたくない設定である。もし仮に昔の恋人であったとしても、どういう形の恋人であるのか、当人の家庭での呼ばれ方など、いろいろな条件によって恋人をファースト・ネームで呼ばない可能性さえあるのだ。

呼びかけの機能を持たない日本語の「名」

さて、現に私は家で父が母のことを名で呼んだのを聞いたことがない。私の場合は、家で母や姉からいつも「ちゃんづけ」で呼ばれていたせいかどうか知らぬ が、昔のガールフレンドのことを私はやはり「ちゃんづけ」で呼ぶのが楽だった。そして私の方はというと、「中溝先輩」という「肩書き」を伴った呼ばれ方以外で呼ばれたことはついぞ3年間なかった。おそらく、恋人同士でも社内恋愛や部活恋愛などの場合、肩書き付きで関係が始まった場合、その方が気がずっと付いて回ると言うことは結構ある話だろう。それでも、そのふたりが結婚して子供でも出来ようものなら、いきなりその子供、しかも一番下の子供の目から見た、最小規模の社会である、家族の中での「肩書き」がやはり最優先されるのである。「のぶこ」はお母さんになる。長女の「のりこ」は弟が出来たとたんに「お姉さん」になってしまうのだ。

私はニューヨークで仕事をする会社人に日本語を教えているという関係で、当然、日本で会社人どうしがどのように呼び合うのかといった、日本文化一般 のアメリカとの違いに言及せざるを得ない。日本では、英語でいうところのファースト・ネームというものが社会的にはほとんど呼び名としての機能を持っていない。どんなときに使うのか状況を説明することさえ難しい、非常に限定的な使用が許されているのみなのである。

会社の雇われ人がボスに向かって「義弘」などと呼び捨てにすることなど考えられない。特に日本の会社社会では、階級というか、社会的クラスを表す肩書の名前で呼ぶことが通 常だからである。課長(さん)とか部長(さん)そうでなくとも「中村副部長」などという案配である。会社の外に出ても、近所のいくら親しいおばさんやおじさんに向かってでさえ「和子」とか「良雄」などと呼び付けるなどは想像することさえ出来ない。そんなのは日本ではおそろしい風景である。現に私はアンナのおかあさんやおとうさんに「マリヤ」とか「グレゴリー」などとファースト・ネームで声をかけるのに大変抵抗があった。かといって、おばさんとかおじさんに相当する言い方があるわけでもないし、ましてやお母さんとかお父さんと呼ぶには早すぎる‥‥

相手の文化に合わせる「不親切」

という訳なのだが、しかしドラマの字幕には「Kohei」と出る。一見これは当り前のようで、他に字幕の翻訳の方法として考えられることがなさそうに見えるが、果 してそれは本当であろうか。そしてまた、相手の文化において不自然でない翻訳をすることが、本当の意味でその文化圏の人々への親切と言えるのだろうか。これはドラマなどの字幕における意訳と言うものがどこまで求められるのか、という問題のごく一部について言及しているに過ぎないが、ちょっと考えてみると面 白いことではある。

うまい例えはちょっと見つからないが、私はインドの叙事詩などの映画を字幕で見るような時に、日本語にない表現を、一見(一聴)して不自然に思えるようなやり方で、その翻訳者が押し通 すのを不快には思わない。その逐語訳(直訳)的な字幕(や吹替え)の中に生きた文化や一種のエキゾティズムとでもいうようなものを見いだすのだ。また、BBCの制作・テレビ化したシェークスピア劇などを見ていても、親切な現代語に訳した「意訳」よりも少々不自然な逐語訳の吹替え方が時代や文化の違いを嗅ぎ取ることを可能としていたように思うのだ。

もし、インドのドラマを見ていて、仮に義理の兄のことをファースト・ネームで呼び捨てにせず、ヒンドゥー語で「ギリノニーサン」と呼びかけたとしよう。それが字幕で「brother-in-law」と表示されれば、「ああ、インドではそのようなやりかたで呼びかけるんだなあ、国によって事情は様々なんだなあ」と思うだろう。しかし、字幕を作る際に、その国の母語である英語を使うのはともかくとしても、その母語を使う国の習慣に習って意訳してしまうのはどんなものだろうか。それが本当に異文化の理解の助けになるのであろうか。

親切すぎるぞ、日本人

日本人は普段から異人さん達に対してちょっと親切すぎるところがあるのかもしれない。相手にあわせる協調性もいいが、相手を、自分など所詮理解してくれるはずもない野蛮人だと、決めてかかってはいないか。たとえば、アメリカや西ヨーロッパの国々において、日本人が無条件的に姓名をひっくり返して自己紹介してしまうのは、それこそほとんど誰もこだわりをもたないが、それはどうしてなのか。面 倒くさいからか。私はいずれにしても、それがアジア人の考えのなかなか及ばない面 であろうと思う。

彼らはフィンランドやハンガリーを訪問した時でさえそうするつもりなのか。日本を訪れるアメリカ人の誰が自分をスミス・ボブだと自己紹介するだろうか。私は日本で彼に会ったら、「ボブ」と名を呼ぶよりは、何の躊躇もなく「スミスさん(くん)」と呼びたい。相手に合わせることばかりが親切ではないのだ。彼らが、日本に於てアメリカでのやり方を押し通 す限り、私は「NAKAMIZO Toshiya」と印刷された名刺を使い続けるであろう。郷に入っては郷に従え、とは言うが、それはいつも日本人であるわれわれがわれわれ自身にいつも当然のこととして教えを垂れる一方で、それを当然と思わない人々がたくさん日本に彼らの「郷の方法」をそのまま持ち込んでいるのである。現に(驚いたことに)大概のアメリカ人は、外国人である我々が姓名を転倒させて生活していることさえ知らないでいるのである。そのようなことは興味の対象外である。親切が過ぎれば、相手の無知(無知は勿論罪ではないが)を助長することになり、誤解があった際に困るのはお互いなのである。

あきらめるのは早い

こうした親切はあきらめに根ざしている。そのあきらめが、「当面の親切」という長期的視野を欠いた(顔に薄笑いを浮かべた)態度に出る。ちょっとうまい日本語を話す外国人(特に西洋人)を見ると感激的に驚く。こういうのは相手に対する期待の薄さを表しているのかも知れない。確かに期待は相互関係的なものだ。我々が彼らに期待を抱かなかったのにはそれなりの理由があるのだろう。「期待されぬ 方が悪い」という言い方も出来る。

しかし、信ずるものは救われると言う言葉もある。我々から信じてみてもよいではないか。どうしてこれからも彼らに期待しないということが最善の方法であろうか。そうなのだ。親切のつもりが、相手の知性に対する侮辱にほかならなくなる、ということだってあるのだ。分かるはずもない、とあきらめてかかるよりも、異文化は理解されるべきものだ、というところから出発する方が遥かに未来は明るい。少なくとも我々が英語を理解し話せる程度には、アメリカ人だって、日本語を理解し、話せたって何の不思議もないではないか。無論、文化的なことに関しても我々日本人がアメリカ人を誤解している程度には我々を誤解することだって、彼らには許されるはずではないか。

よその言葉を輸入するのは

我々は国のどこに関わらず、自分の文化にないものをよその民族や国の中に見いだした際、それが生活や倫理に与えるインパクトが大きいほど、それを知り、学ぼうとする傾向にあるのではないだろうか。アメリカ人が「カミカゼ」を良く知っているのは当然である。

話は変わるが、「ブラボー!」を日本語で仮に「万歳!」と訳してしまったとしたらどうだろう。確かに限定的にはそれが適切であり得るが、演奏会の後の「ブラボー!」コールを「万歳!」と叫んでしまえば、ちょっと、ニュアンスのズレを感じざるを得ない。イタリア語の「ブラボー!」を「ブラボー!」として、訳さずに日本人やそのほかの国の人々が輸入したのは、その言葉自身の持つ特殊な意味あいを壊さずに用いたかったからだ。「ブラボー!」という言葉とともに、その言葉の持つ「ブラボー!」性も輸入した訳である。「ハラキリ」や「カミカゼ」がそのまま輸出されたのは、それが外国語にない特別 な意味あいを持っていたからだ。例えば、「ハラキリ」について言えば、この言葉には"Suicide by cutting one's stomach"という即物的な意味以上のニュアンスが含まれている。そして、戦国の日本を訪れた西欧人にとって、責任をとって詫びる武士のそのやり方は、驚愕を禁じ得なかったに違いないのだ。

最近、アメリカにおける経済や政治に関する教養的な読物やそのタイトルの中には、「ガイジン(外人)」「カイゼン(改善)」「ケイレツ(系列)」などの言葉が目につく。おそらくそうした言葉の中に、日本語にしかない特殊なニュアンスを彼らは再び嗅ぎ取っているのだろう。「カイゼン」はともかくとして、「ガイジン」や「ケイレツ」などという概念は「ハラキリ」や「カミカゼ」同様、アメリカ人の彼らには理解し難い謎めいた、または否定的イメージの言葉として定着するであろう。しかし、良かれあしかれ、自分達の言語体系の中にない概念を輸入・紹介しようとしているということに変わりはなく、相互理解の(相互誤解の)きっかけを提供していることに違いはない。

ふたつの異なる文化が出会うとき、相手の言葉を次から次へと輸入しなければならないほどたくさんの未知の概念と遭遇することになる。これは、単なる外来語の頻用という日本で一般 的に知られたイッシューとダブる面もあるが、それは「大化の改新」以来、日本が疑問を持ちつつも、いわば生活のスタイルのひとつとして常にとってきた方法なのだ(見てくれ、この漢字とカタカナの入り混じった表記を)。

それは日本人の「外国カブレ」の傾向を決めた歴史的出来事だったのかも知れないし、外国カブレの傾向が選んだ当然の選択であったのかも知れないし、どちらが先だかよくわからない。しかし、このアメリカと言う20世紀のローマ帝国で、我々「文化人」がアメリカ版「大化の改新」のきっかけを提供できない、と断定するにはまだ早すぎるのではないのか。無論、我々の祖先がとった「文化大革命」ほどにドラスティックである必要はないと思うが。


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