衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994) | |
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遺跡を掘る
〜「『砂のあした』を生きる」に自らよせる |
小学校の運動会が近付き、先生の指導の元で生徒達は校庭に散ってその準備をした。僕達のグループは入場用ゲートの支柱を立てるために、放課後校庭に残って二人の先生と作業の続きをしていた。ひとりは美術の先生で葛城先生と言った。葛城先生は鶴嘴で堅い校庭の地面 を掘削し始めた。生徒の何かできる場面ではなかったが、あの堅い地面を掘るという非日常的な先生のやり方に、興味をそそられ、取り囲んで眺めていた。50センチ程をほぐしたところで、鶴嘴が何か硬いものにに当たり始めたので、みんなは手やシャベルで土砂を掻き出した。何やらコンクリートの塊や大きな石のかけらが沢山出てきた。おそらく校庭を整備するに当たり、その昔、舗装用資材として要らなくなった建設廃棄物を埋設したものであろう。 ある生徒が冗談で「遺跡だ」と叫んだ。 ◎ 私が少年期を過ごした町田は、東京西部の丘陵地帯を遺跡の発掘現場として知られるところでもある。たて穴式住居とか縄文式土器とかが頻繁に発掘されるのである。私の住む本町田の数キロ北の丘陵には遺跡公園と小さい博物館がある。発掘は丁度僕らが小学生だった頃、一番のピークになった。その頃の研究成果 が今その公園や博物館となっている。冒険好きだった少年の何人かは「発掘調査」と称して発掘現場付近の雑木林や、宅地開発に伴う赤土の造成地辺りをほっつき歩いたりして、中には実際かなりの歴史的遺物を見つけた子*もいた。宅地造成により、だいぶん遺跡がほじくられて見つかったり、また再び深くに埋もれたりもしただろう。 * その子は異常なまでに遺物を「掘り当てる」センスを持っており、見つけた遺物を片端から市の遺跡調査室に持ち込んでは年代鑑定をして貰っていた。遺物の中でも矢じりなんかは彼には珍しくもなかったようであったが、彼の見つけたモノの中で、何万年か前の意味不明の「道具」を研いたり、首から下げたりしていじっているうちに、ある日「吹いてみる」ことができることに気が付いた。かれは遺跡調査室でさえ何であるのか分からなかったそのオブジェクトが笛であることを洞察したのだ。 ◎ さて「遺跡だ」との生徒の発言にたいし、常識的な生徒であることを先生に示すことを旨としていた僕は「そんなことはあるはずない」と反論した。僕も幼い頃、よく一人で庭をほじくり返したりしてよく遊んでいたので、ちょっと地面 を掘れば大きな石ころがぼんぼん出てくることぐらいは承知していた。「そんな浅いところから遺跡などでてくるはずがない」。 くだんの葛城先生は殆ど腹這いに近い格好で穴を窺い、その穴の中にある大きなモノを生徒の手を借りて引っ張り出した。突き出た鉄筋部分を握り、コンクリート塊をみんなに示しながら、厳かに「遺跡だ」と言った。子供特有の「エーッ」という抗議の態度をよそに、先生は「僕らが死んで、君らが死んで、君の孫が死んでその孫が死んで、ずーっとたったら、これも遺跡になる。この学校も体育館も全部土の中から掘り出されるかも知れないよ」と言った。 そのときのそのようなことは「まったく考えたこともない」と感じたのを覚えている。どうして今地上にあるものがわざわざ地下に埋もれなければならないのか、まったく理解できなかった。これらのやり取りをよく覚えているが、学校が土の中から出てくるという光景はそのころの僕には完全に想像を絶していたのだ。 しかし、そのコンクリート塊を遺跡だと主張する先生には、ちょっと変ったことを言って生徒達を驚かしてやろうという様な冗談めかした態度は微塵もなかった。葛城先生にとってそのコンクリート塊は7、8年前の地層から出てきた紛れもない「遺跡」であったのだ。 町田第一小学校は、新市庁舎が建つ前、庁舎の用地をそっくり含んでいたので、その敷地は優に現在の二倍はあった。70年代、町田のベッド・タウン化で市人口は急増したが、いわゆる市郊外への住民の移動が郊外への分校新設につながり、結果 、街の中心の小学校とはいえ、千人弱の生徒を持つ小学校にしては面積的に広すぎて贅沢だということになったらしい。数年後、開校百年祭が来ようとしていた木造二階屋の古い校舎も、鉄筋校舎の新築で教室面 積の確保の点では問題がない。まあ、そんなことで、理不尽な程の広さの小学校の敷地の半分は、新しい市役所のために譲られたのであった。「7、8年前の遺跡」と今言ったのは、町田第一学校が僕らの入学する3、4年前に隣の新市庁舎建設とともに改築されて、校庭も大きく整備し直されたというこうした『歴史的経緯』があったからである。 ◎ 内陸から貝殻が沢山見つかったとしても、そこに貝が沢山いたとは限らない。人が内陸に貝を持ち込んで食べた後で、そこに大量 投棄したのかも知れない(勿論、海岸線が本当に変ったという考えもある)からだ。同じ意味で、我々が何かを発掘して、古代文明か何かの残光をかいま見たとは限らない。ましてや遺跡発見が必ずしも歴史的「惨劇」の証明にもならない。そのコンクリート塊はそこにコンクリート構造物が屹立していたことを必ずしも意味せず、どこからか出た廃物が、舗装材として運ばれてきて埋設されただけかも知れないのだから。 ともかく、僕達は運動会用の入場ゲートのポールを設置するに当たり、校庭に鶴嘴を入れたところ、偶然7、8年前の地層から「遺跡」を発掘したのであった。そして少なくとも数百人の子供達が、広い校庭を市の役人達に奪われたという歴史的悲劇以外は見いだせないのだった。 | |
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© 1994
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