衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

農耕は殺戮する3

これはいよいよ最終回であって、狩猟生活こそが地球にやさしいという今更ながらのしかしそれはそれで新鮮ではある視点を提供しつつ、我々のこの問題に対する今後の姿勢を確認して結びに変えるという文章が載っているファイルです。

まったく奇想天外な想像ではあるが、現在の日本で突然、明日から住民全員が狩猟生活に入らなければならない、としたら、身の毛もよだつような惨劇が起きることは明らかだ。

人びとは少ない獲物を求めて互いに殺しあい、それは日本の人口密度がヨーロッパ帝国植民者が侵略を開始する以前のアメリカ大陸におけるアメリカインディアンたちのそれと同じようになるまで続くだろう。何故なら、狩猟生活というのは厳密にはそうでないにしても、自然な一部として地域の生態系に組み込まれることに非常に近いものであるからだ。つまり、そこでは、ある生物種の個体の絶対数は抑制され、保たれるのである。従って、その惨劇は実は個体数の増えすぎたレミングが集団で海に飛び込んで溺れ死ぬ ような、生物種の自己保存としての反応であるのだ。

北米、南米の原住民族たちが持っているアニミズムは、実は「狩猟生活者」としての彼ら人間族の自己同一性を保つ精神なのではないだろうか。つまり、狩る、という行為が資源を奪取するということではなく、共存することに他ならないという意味で、自分たちを取り囲むそれらの存在に謝し、畏れるという態度を、実は自らの種族を守る本能のような知恵として生みだし、やがて宗教にまで昇華させたのではないだろうか。ああ、こういうことを軽率に書いてはいけないのである。なんの裏付けもないのだから。でも、こういうのは楽しいからどんどんこういう方向で進んでしまうのである。

およそ、あらゆる意味で民族主義と結び付いていない宗教というのは存在しない、というのが僕の「システムとしての宗教」に対する見方である(「僕にとっての中溝は何であったか」参照)。しかし、この線で話を進めるとすると、民族主義的宗教とは、その種族の生命線である「在り方」、たとえばスー族ならバッファローとの共存、倭人なら稲作、という行為をあくまでも肯定する形で発達したのではないだろうか?宗教的に肯定するということはつまり、道徳として絶対的に善であると規定することである。一生懸命皆と力を合わせて働く、という「生き方」が、「善」であるという精神をその民族が育んでいれば、それは議論の余地なく、もう「いいこと」なのである。

中溝が指摘したように、ある勢力から「日本の象徴」であると唱えられ続けている、皇帝の重要な祭儀のひとつが、皇帝自ら稲を田に植えるということであるというのは、これはまさに「象徴的」なのである。皇帝を皇帝たらしめる意味体系側にとって、倭人の国が日本であり続けてきた根拠であるかもしれない文化、「稲作」を精神として伝えることは何にも増して重要であるはずだろうからだ。

これは皮肉にも、日本の農業を大切にしようとする運動が容易に国粋主義に取り入れられてしまうかもしれないという危険を示している。うむ、これはこれで非常に難しい問題ではある。

さて。 我々は先鋭的大和文化倭人のイデオロギーを、そうやすやすと変えることができるとは無邪気に思わない。しかし、少なくとも我々(中溝や僕)は、そうした「倭人が大和であり日本文化でありそれは議論の余地なくいいことだ」を巧妙に常識化しようとする試みに対して免疫を持つくらいの透徹した視点を確保しておく(その意味でも国土から物理的に離れているということはいささか有利ではある。NYの日本人であるにしても)ことを努力し続けるだろう。そして、これもまた、少なくとも手の届く範囲での「潰せる論理」はきちんとつぶし続けることをやめまい。


© 1993 ISHIKAWA Hajime