衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

アイラブニッポン

石川初

星条旗は、それが始まったときは輝けるものだった。

星条旗は、常に、「非・アメリカ的なもの」に対するアンチテーゼとして輝いてきたのである。大英帝国の重商主義植民地政策に対する、新大陸同盟の自由として。全体主義帝国群に対する自由主義の旗として。共産主義国家の世界制覇に対抗する資本主義自由国家のシンボルとして。

当初、彼らの自由とは、大英帝国の圧政から逃れる、という相対的なものであったのに、それが「人間の基本的な権利」という発想にまで昇華され、アメリカの象徴に使われるようになったのだ。

結局、これは宗教と同じだ。ナザレのイエスがユダヤ教の厳格な教律を相対化しようとしたにもかかわらず、宗教となったキリスト教が十字架を絶対化してしまったように。

アメリカを愛することが容易であるのは、アメリカの、「システムとしての国家制度」と、「国民」と、「国土」と、「民族/文化/伝統」とが、別 々に考えることが簡単だからだろう。もちろん、それはお互いに深く関わり合っていて、単にひとつだけを取り出して論ずることはできないかもしれないが、実際のところ、たとえば僕が「僕はアメリカの国家は嫌いだけれど、アメリカの国民は好きだ」とか、「国としてのアメリカは好きではないが、アメリカの文化には非常に魅力を感じる」と発言しても別 に不自然ではないのである。

日本を愛するとき、不利になるのは、この点である。日本は、実に、「システムとしての日本国という国家制度」と、「国家の領土という日本の国土」と、「日本国の国民」と、「大和民族とその文化/歴史」というものを冷静に分けて考えることが難しい。特に日本に身を置いていると、それらはなんかもう、不可能なほど分かち難く結び付いている。

そういう思考法があまりに常識化しちゃっているために、「日本を愛している」と発言してしまうと、それぢゃお前は日本の国家も領土も気候も風土も大和民族もその歴史も象徴としての天皇もゲイシャもソニーも、全部愛しているんだな、え、と、自分でもそう思ってしまって、こりゃいけねえや、俺は天皇制は嫌いなんだった、と、混乱してしまったりするのです。

君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の生すまで。


© 1993 ISHIKAWA Hajime