衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

「国技」というものは成り立ち得るか
〜あるいは「文化」としてのスポーツに国境はあるか

相撲というものは当り前のようなことだが非常に日本的なスポーツである。こういういい方が曖昧すぎるなら、非常にローカル色の強いスポーツである、とでもいおうか。あるスポーツ評論家が言っていたが、もしいまの相撲界にさらに多くの外国人力士がやってくれば、国技として成り立たせている相撲のルールそのものを変えなければならない日がくるかも知れないらしい。つまり、日本人にあり得た力士の体型というものが土俵の直径やそのほかの細かなルールをつくっていたのに、そうした従来の常識的体型の枠組を遥かに越えた体型をもつ外国人力士達が、沢山ハワイや南アメリカ辺りからやってきて、その身体的特徴にものを言わせて、それこそ単純な『押し出し』などの技で勝負を決めてしまうようになってきている、というのだ。そして、伝統的に存在していた多くの技が意味をなさなくなってきて、それら種々の技はいまに失われてしまうのではないか、というのである。

実際にはこうした外国人力士がやってくる以前から、ほぼ失われてしまったと言える様な技が沢山あるようで、文化としての相撲というものも、時代とともに変化してきた、と言えるのかもしれない。が、現在起こりつつある外国人力士の台頭というのは、土俵の直径を再検討しなければならない程のインパクトを与えはじめているらしく、まるで何かほかのことを暗示しているようで考えると面 白い。

しかしこうした発言には注意しなければならない。外国人力士がやってきて彼等が尋常ならざる勝ち方をしはじめたので、ルールの変更を考える、ということになれば、それは単純に外国人であることのせっかくのアドバンテージを損なうことになりかねないからである。しかしそういう判断も狭い相撲界の人握りの人々の判断ではなく、相撲が「はため」から見て面 白いかどうかというような、一般の相撲ファンの判断によるべきなのではないか。もっとも、今のその業界を見ている限りでは、むしろルールそのものを変えるというよりは、部屋ごとにいることの許される外国人力士の数を制限するとか、日本語がどれだけ話せるか、であるとか、相撲界にふさわしい「品格」があるかなどで、結局は力士になれる条件を狭(せば)める、というようなことの方がありそうなことだが。

しかし、そのようなことも相撲界を占める外国人力士の割合が半分以上になる、とかいう「異常な事態」になったりすれば、いままでの伝統的規範とは一体何だったのか、ということになるのである。いままでの1.5倍ほどの大きさの土俵を使って「大相撲ハワイ場所」などというものが当り前のように中継される日がやってきて、2メートルにも達する雲をつくような大男が互いにビシバシと押しあうのが見られるかも知れない。それは我々がいま親しんでいる相撲では、もはやないかも知れない。が、それが「相撲」というスポーツ(娯楽)が初めから内包していた、ある種の宿命なのかも知れない。いずれにせよ、そのとき相撲ファンというものがそれを楽しんでいるかどうかが文化*としての相撲が存続できるか否かの鍵を握っているのである。それは人握りの偉い人達が奥座敷で決める、というようなものであってはならない。

*何度もいうように「文化」というものは絶対多数の都合で定義されるものだ。

ちなみに私は相撲に全然興味がない。


© 1993 Archivelago