衝動が設問であり、知性がそれへの回答である。回答には闘争が伴う。 完結しているもので「正常」なものはない。 宇宙ひとつとっても、完結していない。
宇宙は非安定で、意味に向かって到達しようと今も爆発的に広がっている。 しかし、例えば社会も集団として完結・安定しているものに「意味」はない。 完結を克服するときに部外存在が伴い、「意味」への到達をたすける。
部外存在になったとき、生と死の無意味から脱却できる。 繰返しこそが完結・安定の要素である。 繰返し(反復)運動の中には、しかし意味はない。
むしろ、反復によってもたらされることに意義がある。 それは性行為によって最も象徴的に表される。 そしてまた大小の死によっても。 即ち、社会の中での安定には意味はない。
また生活の中での安住にも意味はない。 安定的反復は手段であり、目的ではない。 社会という「仕組み」は、そこを出る僅かな者達のためのシステムである。
この僅かな「出外者」のみが社会の目的を規定することができる。 「出外者」は痛みと供に外に放出される。 痛みを伴わずに完結的組織から抜け出すことは出来ない。
しかし抜け出したときにこそ、出外者の選択が行なわれる。 選択後、役割が始まる。 痛みと供に母なる大地から剥がれ落ち、 別の完結に向かって走り向かう。
完全なる球体には内と外の区別がない。 完全なる球体の内に入ることは、もうひとつの外に出ることである。 ここでも部外に到達できるものはきわめて僅かである。
しかし、その「僅かさ」のために部外者が「異常」と呼ばれることはない。 それが「異常」ならば、総ての他の安定的存在は、 その異常を生み出すために用意されていた。 二重の意味で、出外者が完結的組織には必要である。
1 部外者のみが部内を観察できる。 2 部外者のみが部内の意味付け、およびその利用を出来る。 快感と痛みは表裏一体である。 女性は月に一度出血する。
出血は「正常」のひとつとしてプログラムされている。 生命の生まれでるとき、母体は傷つく。 痛みのない誕生も有り得ない。 痛みのない死は有り得ない。
そして、死のない「存在」は有り得ない。 死によって新たな生の正当化が成される。 飽くまで、痛みは正常化のひとつとしてプログラムされている。
かつて、宇宙は「存在しない」を選べなかった。 それは「無」という完全なる安定に耐えられなかった。 そしてさらに、存在には「無意味」という宇宙内構造からの脱出という目的が。
宇宙の無意識はやがて生命という必然的な「有意識」まで成長を続ける。 そして、その有意識が「宇宙の広さ」まで把握し「意味を問う」事を始める。
完全宇宙はもう一方の宇宙、 すなわち物質宇宙の鏡である方法のひとつ、 「精神宇宙」をついに獲得するに至る。 |