衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

中傷文学の勃興

◆自分が高まりたいのか、人を落としめたいのか?
◆世間には自分の状態に不満を持ちながらもそれを変えていけない人達がたくさんいる。
◆変えられない自己に満足できなくなると、人は自分よりレベルの高い、あるいは自分より力があると思える人達の「悪い噂」を好んでするようになる。

上のようなことを鑑みると、本屋の店頭にこれから記述するような種類の書籍が並ぶのはある意味当然の成り行きであったと言えるかもしれないものの、あまりのレベルの低さに失望を通 り越して呆れてしまうほどである。

たとえば政治家やその家族についての噂、芸能人についての噂、ヤクザについての噂 こうした人の噂に関する著述は、世間に上記のような人がたくさんいる限り、必ず読まれ、一定の読者を維持し続ける。 こうした「噂に関する著述」というものは一見ルポルタージュ風文学を装っておりながら、その中には中心となる主張や発展的な提言というものがない。「世の中にはこのようなあきれた者達がいるのである」と言いたげな、また「どうですびっくりしたでしょう」などのことで締めくくられる週刊誌的な内容に留まるのであり、その中にはそうした内容の中に登場する人達への明かに中傷と思われる様なものがある。

私はこうした噂に留まり、書いた本人も書かれた本人にもなんら発展をもたらさないこうした似非ルポルタージュを『中傷文学』と名付けることにする。さて、なぜこのようなルポと見紛うばかりの中傷文学が現れたのであろうか。

中傷には大きくわけてふたつの側面がある。まず第一に著述家本人がそうした登場する人達への否定的感情を抱いていることが想像される。たしかにどんな場合も否定的感情は多くの作家の書く動機になるのだろう事は想像に難くない。しかし、本人がそうした人達に対して個人的憎しみや嫉妬の解決のみが実のところ唯一の動機であるというのがここで問題にしているケースであろう。

もうひとつは著述家本人にはなんら個人的憎しみや嫉妬などがない場合があるかもしれない。ただ単に売れるから、似たようなものを次々に、同じ出版社からの後押しで書き続けているというもの。後者の場合、そのような出版物を出し続ける表面 に見えない動機、というものを考慮する必要がある。つまり、本人は自分の知名度を高めるためには何でもする。当然、印税は入り、稼げる。出版社は売れるものは何でも出す。これですべては説明できそうだが、そのような著述が世の中に増えて喜ぶ人、すなわち本の対象となった人達が社会的に葬られる、またはマイナス・イメージを被るなど損をすることによってどこかで得をしている人達がいるということを無視することは出来ない。

「売れるものというのはそのときの時世を反映しているのであって、誰一人としてそれを求めなければ、そんなものは出版されない」という様な意見が予想されるが、そうした意見は出版社当事者が決して言ってはならない見解である。どういうものを世に向かって問いたいのか、どういったオピニオン・リーダーたりたいのかという方針を出版社自身がまったく欠いているということを意味するからである。つまり出版活動の商業化である。そういうのを大衆迎合という。

そればかりか、出版に関する倫理的ともいうべき、哲学的理念を欠いたときにそうしたメディアは単に権力家や政治屋などの道具に簡単になり下がることを忘れてはならない。そしてこともあろうに、そうした哲学的理念を欠いたメディアにかぎって自分達がもっとも「質の高い娯楽の提供者である」というまったく不適切な自己認識を持っていたりする。たちの悪いことに、その『高い娯楽性』のために彼らは人気出版社であったり、人気放送局であったりするのである。そんなわけで当然より高い資金供給をするスポンサーがつき、より大きく効果 的な公告を出し、どんなに質の劣った内容でも更に、人の目につくところに現れてくるという悪循環に容易に逢着する。

最後の段階では、人目につけば単なる噂や個人的嫉妬だったものが立派な『社会現象』ということになり、それはもっともホットな話題というところまで昇格してしまうのだ。知識人達もその現象にこのように多大な労力の浪費ということに気づかずに参加している‥‥

さて、ついに出たのが「海外で活躍している人達」に関する噂である。大物政治家やヤクザ、タレントに関する噂に飽き足りなくなったのか、今度はどこにでもありそうでそれでいて、離れたところで何をしているか分からない(きっと遊んでいるに違いない)、ちょっと気になる(自分を将来批判するかも知れないので大いに気になる)、知った被り予備群(自分だってちょっと金があれば海外旅行ぐらい出来るヨ)である海外生活者にターゲットは絞られたのである。

さて、海外生活者が異国の地でまったく遊んでいないかというとそんなことはもちろんない。海外生活者がまったく海外に出たことのない人よりものを良く知っているとも全然限らない。海外生活者が他人に悪くいわれる理由がまったくない、わけでもなかろう。しかし、それで海外生活者というものはかくあるものだという様なことをいくつかの事例で決めてしまえるわけではない。また、そういった事例がいくつか存在することで、海外生活者の持っている特殊なアドヴァンテージや彼らのなしていることの意味がなくなるということは断じてない。

人の立場を落としめるという行為は、各人が予想するほどには悪いものではない、と錯覚されがちだが、実際には何の益ももたらさない。「世の中には、これだけのあきれた人達や尊敬に値しない人達がいっぱいいるのだ」という事実は、断じてそれを主張する人やそれを読んだ人達の精神的レベルを高めない。高めないどころか、もっぱら、世の中に人々を無思慮、無思考に導くのみである。そうした記述は世の中にある事実の一部を語っていることにはなるのだろうが、それがすべてということにはならない。しかし「それがすべてだ」と、「世の中所詮そうしたものだ」と人に信じさせるところに多くの問題の元兇がある。

つまり、現実の世界というものを改変・改革することは出来ない、というような諦観のみを提供するというわけであって、社会のためにならない。そういうわけで、私は「中傷文学」というものを反社会的行為を実際にしている人以上に、危険かつ退行的活動として批判するものである。


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