衒学者の回廊/滞米中の言の葉(1993-1994)

少数民族の意地

石川 初

アパートの契約期間の期限切れに伴い、引越しをしました。 結局、ダウンタウンのロフトでなく、これまでと同じ町内、歩いて5分ほどのところです。家賃が少し高くなりましたが、今度は居間と寝室がちゃんと分かれているアパートなので、「散らかり」(僕は実に部屋を散らかして住む)を寝室に閉じ込めておき、居間をうそのようにきれいにしておいて、いつ、友達が遊びに来ても大丈夫、という利点があります。

最近、在アメリカ3年目にして、「日本文化の見直し」とでもいうべき、うん、日本の文化にはやはり素晴らしいものがあるな、という反動的な精神状態に陥っていまして、箸や包丁や湯呑の凝縮された道具性にあらためて感心したりしていますが、その日本への回帰活動の一環として、布団を買いました。

FUTONはすっかり、アメリカの文化の一部として定着しています。街には、布団専門店がいくつもあるほどです。ただ、日本の布団そのままでなく、敷布団をもっと厚くしたようなやつを、折り畳んでソファーのようになるフレームと一緒に売っています。(従って、掛布団はない)

僕は8インチ厚、という体育のマットみたいにずっしりと重い、ダブルサイズのやつを買いました。店員さんが、いままで、フトンで寝たことがありますか?と聞いてきたので、「いいえ」と答えると、中に綿をつめたこの東洋式の寝具のすぐれた吸湿性や、背骨によい程よい固さなどについて、丁寧に説明してくれました。

さらに、アパートを土足禁止にしました。
遊びに来た友人達に、靴を脱いでくれ、というと、最初、特に女性などは服を脱いでくれと言われたときのような顔をします。この靴、汚れてないよ、ほら、と抵抗するやつもいますが、厳然として「カミシモ」の領域を守ることにしています。 こういう、理屈が通らない非合理性が、文化/伝統なのです。

[「“小数派の理屈”も理屈は理屈」にとぶ]


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